たほ日記

生活一般、読書、美容、恋愛など

自らの満ち足りなさを世間の無知に贖おうと退行するサド的視座

タイトル意味わかんないでしょ?でもこういう意味わかんないそれっぽいことってすごく日常に蔓延してない?って話です。

 

テレビはそんなに観ないのだが、政治バラエティや討論番組、ノンフィクションなどは興味がある。私が一番好きな番組は「そこまで言って委員会NP」で、実家にいる頃から10年近く見続けている。上京したときには「ああ、これでそこまで言って委員会が見れなくなる」とわりと本気で悲しんだものだが、最近TVerで視聴できると知ってからは狂喜してほぼ毎週視聴している。

この番組の面白さについては私なんかがここでだらだらと書くよりも、各位観てもらった方が早いと思うので割愛。色々勉強にもなるし、毎回頭のいいちょっと不思議な人を眺めることも出来る。暴力的な発言が炸裂することもあるが、どことなくウィットがきいていて憎めない討論会。私が「冗談の通じない人」を未熟だと思うのも、この番組の影響が随分と強いだろう。

さて、二回前くらいから「そこまで言って委員会NP」の司会者が変わってしまった。もちろん辛坊治郎議長は変わらないのだが、その隣に立つ司会が渡辺真理さんではなくなってしまったのだ。代わりは25歳の読売テレビ女性アナウンサー。もうショック過ぎて名前すら覚えていない。

なにも私は「若いバカそうな女に変わってしまって残念」という尊大なおじさん的な考えを抱いたわけではない。(ここ重要)ただ、知識人たちが白熱して、ときには行き過ぎることもある議論を、バラエティ色を留めたままここまで中立的に進行していた渡辺真理さんを私は仕事人として非常に尊敬していたのだ。もうあの凛とした大人を見れなくなるのかと思うと残念である。(同じ意味で、最近では宇賀なつみさんのテレ朝退社もかなりショックだった)

そして後任のアナウンサーが番組で紹介されても、誰だかさっぱりわからない。普通に可愛いとは思うけど、この可愛さは「そこまで言って委員会NP」にはいらない。多分、こういう感想を抱く女性視聴者は私のほかにも多いと思うのだが・・・。

ここでやっと本題(?)に入るわけだが、私はこのアナウンサーの最初の挨拶が気に入らなかった。ピンとこなかった、という方が正しいかもしれない。意気込みを語るなかで、「個性的なみなさんを締め付ける、サドな秘書として頑張ります!」的なこと言ったのだが、私はこれを根っこからズレていて、自意識過剰な発言だと感じた。

もちろんこれが他から言うように指示されたことであるかもしれないので、彼女自体を否定するつもりは一切無い。ただ、自分の知識や経験に基づく、確固たる「自分の見識」を発言し合う番組のなかにサドもマゾもないし、「締め付ける」権限なんてもってのほかだ。話の腰を折るのが関の山。どうせ「魑魅魍魎の中でも負けじと頑張る可憐な新人」みたいな図を作り出したかったのだと思うが、それなら他の言いようがあるだろう。

年をとったのか、こういう「気取った態度のズレ」というものが気になるようになってきた。自分が思わぬところでやっていたら、本当に恥ずかしい。尤もらしく発言することのリスクをもっとしっかり考えて生きていかなくてはならない。

 

村上春樹騎士団長殺し」が文庫になったので読み進めているのだが、思わず栞を挟んでしまった一説がある。

 

ー私は一人で首を振った。そして苦笑しないわけにはいかなかった。まったく絵に描いたようなフロイト的解釈だ。まるでそのへんの頭でっかちの評論家みたいな言いぐさじゃないか。「あたかも孤独な女性性器を想起させるような、この地面に開かれた暗い穴は、作者の無意識の領域から浮かび上がってきた記憶と欲望の表象として機能しているように見受けられる」とか。くだらない。

(「騎士団長殺し」第二部上巻より引用)

 

「私」は自らが描いた絵についてこのように述べているのだが、私はこれを読んでちょっと笑ってしまった。生類わかりみの令って感じ。評論というのは文化の発展のなかで重要な立ち位置にあるだろう。誰でもする評論をする権利があるがそれで食べていくのは非常に難しい。ただ、これは的を外すととんでもなく滑稽であることを示唆する一説だと思う。

東京にバンクシーの絵画が現れたかもしれないとかで最近騒がれているが、これについて独自の解釈で偉そうにバンクシーを語り始める人見ると、共感性羞恥が誘われる。同じ軌道で、ジブリ映画から見る死生観(ex.「となりのトトロ」のさつきとメイは実は死んでいる?みたいな)を真面目に考察したり、あるいはそれを大学の卒論なんかにしちゃう人も思わず「そんなん宮崎駿に聞けよww」とバカにしたくなる。人物や物事に対する根拠の無い考察、答えがすぐそこにある暗喩の過大解釈、そういうものは全部無くて良いのではないのか。あえて閉じたものをこじ開ける必要性が、私にはなかなか理解できないことがある。

「たほちゃんって、家族に対してこうだよね、男に対してこうだよね、友達に対してこうだよね」とさして仲良くも無い人間に知ったようなことを言われると、毎度恨みつらみが蓄積してゆく。そうやってあなたが鼻の穴を膨らませながら言っていることは、何一つ当たっていないし、相手の癇にさわるだけだ。「君の知らない物語」でも聴いて出直してこいと。

私がこう思ってしまうことに対して、「他者を通じた自己を拒絶することによって、より深い言及を求めるアンビバレントでサド的求愛行為」とか言われたらもう本当におしまいなんだけどね。