たほ日記

生活一般、読書、美容、恋愛など

劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVEキングダム を観て(ほぼ詩)

残業後の帰り道、夜風に当たりながら音楽を聴いて歩いているとシャッフルで「夢追人へのSymphony」が流れて、目にうっすら涙が溜まった。いてもたってもいられなくて帰宅直後、レモンサワー片手にこれを書いている。

思えばtwitterやブログを立ち上げたのも、うたプリへの思いが日常生活では堰き止められなかったことが始まりだった。そこから人間関係はがらっと変わり、うたプリ中心の生活で私の人生の軌道も大きく変化し、今が形成されたと言っても過言ではない。

そして、そのこれまでの熱中ぶりに一つの答えとして、劇場版があったのだと思う。

本当に気持ち悪いことを言うけど、やっぱり私がちゃんと確信できる「愛」ってここにしかないとマジで考えてしまうのだ。

 

うたプリには本当に「愛」っていうワードが頻出する。歌詞にしても、MCのセリフにしても。ゲームでももちろんたくさん出てくる。そのときどきには「うんうん、愛ね。はいはい」程度に受け取ってしまうのだが、劇場版でもたくさんの「愛」ってワードを聞いているうちに、「彼らが一度でも私(たち)への愛を疑ったことはなかったな」と思い知らされるような気持ちになり、目頭が熱くなった。

朝目覚めて普通におしゃれして彼の元へ会いに行くと、「もうお前のこと好きじゃないかもしれない」と言われる。そんなことがザラにある生活のなかで、いつでも「大好き」って伝えてくれる存在って、稀有でありがたくて、幸せになれる。

無理しないで、どんな君でも好きだよ、夢を追いかける君は素敵だよ、いつもありがとう…涙。

 

学生時代に心が迷走していた頃、ルミネのようなファッションビルなどに入ってカップルを見かけると「私たちこの組み合わせでセックスしてまーす」って言われているようで勝手に気分が悪くて動けなくなる瞬間があった。今思えば相当病んでいたように思うが、そんなときもうたプリの曲を聴くと精神が安定することがあった。うまく言語化できないけど、私の中の「愛」の基準が整えられ、励まされる気がしたのだ。

 

社会人になってしばらくした一時期、うたプリ(に限った話でもないのだけれども)にこんなに傾いて、心の支えにしてしまっていいのだろうかと悩んだ。もっと端的に言えばいい年してオタクやってんのってどうなんだ、という話である。そこから現実世界の愛を探しに合コンに誇張抜きで100回行ったり、男性と付き合ってみたりとした。それはそれで楽しかったときはあったが、一ノ瀬トキヤの曲を聴くと「君はそれでいいのかな?」と問われているような気がして辛くなる時があった。失恋してもう一度同じ曲を聴くと「それでも大丈夫なんだよ。おかえり」と言われているような気がして、ちょっと泣いたりもした。(※推しは寿嶺二なのだが、やっぱり曲は一ノ瀬トキヤが一番好き)

オタクなんてダサい、そんなことはわかりきっている。

でもどんな私でも受け入れてくれるような世界は今改めて周囲を見渡しても、ここにしかないような気がする。

 

昨日、二日酔いが本当に辛くて、命からがら出社したはいいものの、午前中ずっと会社のトイレで吐いていた。ちょっと早めに昼休みをもらって外に出て、コンビニのイートインで豚汁を啜った。空っぽの胃に入る豚汁が美味しくて感極まっていると、イートインの隣の席に座っている女性(すごく失礼なんだけど最初おじさんだと思った)のスマホケースが美風藍であることに気づいた。

「マジラブキングダム、良かったですよね」と心の中でつぶやきながら、この人もまたうたプリの愛に守られた幸せな女性なのだなとしみじみ思った。藍ちゃんが二日酔いでボロボロになっている私を見てため息をついている姿を想像したら胸が熱くなった。思い上がりかもしれないけど、その一瞬は私一人の体じゃないんだと感じた。

やっぱり田中みな実が超可愛いんだなって話

エヴァンゲリオンの 13話が昔から結構好きだ。(あらすじページお借りいたします:https://36ch.com/evangelion/eva_story/eva_story13/)といっても、リツコと母親、そして女みたいな話はわりとどうでもいい。なんといってもMAGIシステムってめちゃくちゃかっこよくないですか?ってことなのですよ。

初めて観たときの衝撃は忘れられない。メルキオール、カスパー、バルタザールの3つのシステムの多数決を行うスーパーコンピューター。すごく理に適っているように見える一方で、3つの人格が入り混じっているどこか人間臭いリアリティに満ちたシステムである。それでも結局は多数決。クール極まりない。

かなり唐突だが、「もし私の中にMAGIシステムが搭載されていたら、どんな3つの人格によって構成されているだろう」と考えたことがある。当時大学生だった私の結論はこうである。「石原慎太郎」「フジモンFUJIWARA)」「田中みな実」。

簡単に説明しておくと、「石原慎太郎」は文学と政治に物申したがる厳格な爺さんのような私で、「フジモン」はおちゃらけるときもあれば正論をかぶせたがるツッコミ的な立ち位置を買って出てしまう私(あと、木下優樹菜のようにヤンキーっぽい人間に惹かれがち)である。

田中みな実」については、単にぶりっこしちゃう私、という意味で加えた。その当時に私のなかでは「田中みな実=ぶりっこ」であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。顔の良し悪しなどについても、特に何も考えたことがなかった。

ところが今、田中みな実ってめちゃくちゃ魅力的じゃないか!?とつくづく思い始めている。

「an・an」で例の「肘ブラ」表紙を公開することによって、ある種「再発見」された田中みな実であるが、今や女性ファッション誌や美容誌などの表紙にもしばしば登場している。TBSアナウンサー時代は女に嫌われる女の代表のような触れ込みだったことを思い返すと、ものすごいイメージ改革だと思う。

ネットニュースなどでも頻繁に彼女の名前は出てくる。あざとキャラは相変わらずのようだが、美容に力を入れている様子を見せたり、節々に過去の失恋を薄暗い様子で語ったり、独身女性の闇(あんまりこういう言葉使いたくないけど)を披露したりすることもあるらしい。宇垣美里もそうだが、美女が共感性の強い心の闇を発信すると、女性票は途端に集まるという現象がある。個人的にはなんとも情けない話だと思うのだが(美女の悩みを見て安心する一般女、という構図がみじめ)、田中みな実もそういうアプローチで着実に露出を増やしているのだろう。

彼女はよく「30過ぎて独身」ということを言っているらしいが、どう見ても今の田中みな実は5年前よりもずっと綺麗だし可愛い。ロリっぽさが消えて、フェイスラインがずっと美しくなっているし、華奢ながらになんだか触ってみたくなる雰囲気がある。

27歳の私が言うのもなんだが、石原さとみ北川景子といった日常的に美女の代名詞として挙げられることが多い有名人が軒並み30代であることを考えると、平成も終わり、20代女の神話も終焉を迎えつつあるのではないかと思う。私なんかは田中みな実を見ていると、自分もこの先、このくらい綺麗になっていけばいいなあと希望すら感じる。

しかしここで見失いがちなのは、容貌の美醜と「30過ぎて独身」という事実は全く別の問題であるということだ。20代女の神話が終わるということは、すなわち若くて可愛ければ結婚できるという言説も淘汰されるということになる。だからこそ「充分可愛いのに結婚していない」という状況は、結婚願望のある人間にとっては辛いのだ。田中みな実の言う「30過ぎて独身」はきっとこういった意味を含んだ発言であって、お茶の間の一般人が「田中みな実も結局は私と同じ女なんだ」と思ってしまうのは迂闊だろう。

迂闊なのは女だけではない。たまに私が飲みの席なんかで「田中みな実ロールモデルにしています」と言うと、高確率で男から笑われる。私はこれがかなり腹がたつ。じゃあお前、目の前に田中みな実が現れて誘われても絶対にノーと言うんだろうな?という気持ちになってくるのだ。たかがぶりっこ女に俺は騙されないよって顔している男は、一生ステップワゴンに乗ってアウトレットで買い物してればいい。(※ステップワゴンはいい車だし、アウトレットは最高だけどね)

と、ここまで啖呵切ったはいいものの、実際田中みな実ロールモデルって一体何をすればいいんだ?と考え込んでしまうことはある。よく私は憧れの人物を見つけると、その人の作品をまず漁り、影響を受けた本や音楽など紹介していれば片っ端からチェックする、みたいなことをしていたが、田中みな実に関してはそういうものがほとんど見当たらない。っていうか田中みな実って本とか読むの?

となるとやはり参考にすべきはファッションだろうかと思い、試しに「田中みな実 私服」で検索してみると、一定の傾向は読み取れる(ノンスリーブのリブニット、厚底、凝ったデザインのスカートなど)ものの、何か今すぐ真似れるようなアイディアは拾えなかった。ますます田中みな実の唯一無二感が際立つのみである。私のMAGIシステムに入ってもらっているのもおこがましいレベル。というかもう大学生でもないのだから、システムの総入れ替えが必要だろう。

MAGIシステムのポイントは一人が女性であることである。早く後釜を見つけなければ、石原慎太郎フジモンだけでどこまでも突き進んでしまう。

令和〜〜!!

平成が遂に終わったわけですが、あのメディアの盛り上がりようは何だったのでしょう。まるで大晦日で、なんとなく0時を跨がないと勿体無いような気がして、眠気まなこでテレビ画面を見つめていた昨日。「令和最速婚」といって、深夜に役所に並ぶカップルの映像が流れた。なんで時代の節目にこんなもん見なくちゃいけないんだよ、とさすがに心がささくれた。同時にテレビ側の手持ち無沙汰を感じた。特にネタがないんだろうな。年末ではないからね、除夜の鐘も鳴らない。

 

やっぱり感慨深いものとして平成の終わりを噛み締めるべきなのだろうとは思った。たとえば親世代が昭和へのノスタルジーに想いを馳せているのを見ては、今まで特に何の感想も抱いていなかったが、これからは平成が私にとっての帰る場所になっていくということか。だとしたら心強いものだ。「令和はすごいねえ」とか言っておけばいいと思えば安気になる。さとり世代、上等じゃないか。もともと世間様と闘う仕様じゃないんだよ私たちは。

令和の目標とかは特に決まってない。とりあえず「東京オリンピックまでに岸尾だいすけといるところを文春に撮られる」というマニフェストはこの前友達と決めたけど、令和はそのあともずっと長いもんな…。

うっすら考えることとしては、これからの時代、人生を楽しむためには「自分を発信し続ける」ことがどうしても不可欠になってくるだろうということ。別にSNSマスターになる必要は無いのだけれど、何かしらで存在感を維持していかないと、人生のアカウントは簡単に忘れられてしまう。

ぶっちゃけ私は色んなコミュニティを気分でウロウロするタイプで、しかも恥ずかしくて濃密な関係をなかなか作り出せない気質なので(依存に転ぶのが怖い)各方面にころっと忘れられる可能性が微レ存。連絡などがマメなタイプでもないので余計。平日普通に仕事して家に帰って何もしないで寝ようとした夜には、自分の社会的な浸透圧を感じてしまって溜め息が出そうになる。生活に何の不満もないのに。

別に友達が100人いようが恋人がいようが結婚して家族がいようが人間は孤独な生き物なのは分かってるけど、出来れば寂しくないように過ごしていたいと切に思う。というわけでとりあえずパッと出来ることはこのブログの更新頻度を上げることくらいかしら。書くって作業は、その日一日に色塗りをするようで、ちょっとだけ生活がグレードアップした気分になるのだ。

 

4月27日、森かとまんインドのイベントのお手伝いをしました。面白かったですよね、あの夜。私は完全に3人のネームバリューの大船に便乗したに過ぎないわけですが、「ブログ読んでます」と声をたくさん掛けてもらって超超超嬉しかったです。いつか、このブログが誰かの寝る前のお気に入りの読み物みたいになったらいいなぁって考えています。令和もよろしくお願いします。たほ

自らの満ち足りなさを世間の無知に贖おうと退行するサド的視座

タイトル意味わかんないでしょ?でもこういう意味わかんないそれっぽいことってすごく日常に蔓延してない?って話です。

 

テレビはそんなに観ないのだが、政治バラエティや討論番組、ノンフィクションなどは興味がある。私が一番好きな番組は「そこまで言って委員会NP」で、実家にいる頃から10年近く見続けている。上京したときには「ああ、これでそこまで言って委員会が見れなくなる」とわりと本気で悲しんだものだが、最近TVerで視聴できると知ってからは狂喜してほぼ毎週視聴している。

この番組の面白さについては私なんかがここでだらだらと書くよりも、各位観てもらった方が早いと思うので割愛。色々勉強にもなるし、毎回頭のいいちょっと不思議な人を眺めることも出来る。暴力的な発言が炸裂することもあるが、どことなくウィットがきいていて憎めない討論会。私が「冗談の通じない人」を未熟だと思うのも、この番組の影響が随分と強いだろう。

さて、二回前くらいから「そこまで言って委員会NP」の司会者が変わってしまった。もちろん辛坊治郎議長は変わらないのだが、その隣に立つ司会が渡辺真理さんではなくなってしまったのだ。代わりは25歳の読売テレビ女性アナウンサー。もうショック過ぎて名前すら覚えていない。

なにも私は「若いバカそうな女に変わってしまって残念」という尊大なおじさん的な考えを抱いたわけではない。(ここ重要)ただ、知識人たちが白熱して、ときには行き過ぎることもある議論を、バラエティ色を留めたままここまで中立的に進行していた渡辺真理さんを私は仕事人として非常に尊敬していたのだ。もうあの凛とした大人を見れなくなるのかと思うと残念である。(同じ意味で、最近では宇賀なつみさんのテレ朝退社もかなりショックだった)

そして後任のアナウンサーが番組で紹介されても、誰だかさっぱりわからない。普通に可愛いとは思うけど、この可愛さは「そこまで言って委員会NP」にはいらない。多分、こういう感想を抱く女性視聴者は私のほかにも多いと思うのだが・・・。

ここでやっと本題(?)に入るわけだが、私はこのアナウンサーの最初の挨拶が気に入らなかった。ピンとこなかった、という方が正しいかもしれない。意気込みを語るなかで、「個性的なみなさんを締め付ける、サドな秘書として頑張ります!」的なこと言ったのだが、私はこれを根っこからズレていて、自意識過剰な発言だと感じた。

もちろんこれが他から言うように指示されたことであるかもしれないので、彼女自体を否定するつもりは一切無い。ただ、自分の知識や経験に基づく、確固たる「自分の見識」を発言し合う番組のなかにサドもマゾもないし、「締め付ける」権限なんてもってのほかだ。話の腰を折るのが関の山。どうせ「魑魅魍魎の中でも負けじと頑張る可憐な新人」みたいな図を作り出したかったのだと思うが、それなら他の言いようがあるだろう。

年をとったのか、こういう「気取った態度のズレ」というものが気になるようになってきた。自分が思わぬところでやっていたら、本当に恥ずかしい。尤もらしく発言することのリスクをもっとしっかり考えて生きていかなくてはならない。

 

村上春樹騎士団長殺し」が文庫になったので読み進めているのだが、思わず栞を挟んでしまった一説がある。

 

ー私は一人で首を振った。そして苦笑しないわけにはいかなかった。まったく絵に描いたようなフロイト的解釈だ。まるでそのへんの頭でっかちの評論家みたいな言いぐさじゃないか。「あたかも孤独な女性性器を想起させるような、この地面に開かれた暗い穴は、作者の無意識の領域から浮かび上がってきた記憶と欲望の表象として機能しているように見受けられる」とか。くだらない。

(「騎士団長殺し」第二部上巻より引用)

 

「私」は自らが描いた絵についてこのように述べているのだが、私はこれを読んでちょっと笑ってしまった。生類わかりみの令って感じ。評論というのは文化の発展のなかで重要な立ち位置にあるだろう。誰でもする評論をする権利があるがそれで食べていくのは非常に難しい。ただ、これは的を外すととんでもなく滑稽であることを示唆する一説だと思う。

東京にバンクシーの絵画が現れたかもしれないとかで最近騒がれているが、これについて独自の解釈で偉そうにバンクシーを語り始める人見ると、共感性羞恥が誘われる。同じ軌道で、ジブリ映画から見る死生観(ex.「となりのトトロ」のさつきとメイは実は死んでいる?みたいな)を真面目に考察したり、あるいはそれを大学の卒論なんかにしちゃう人も思わず「そんなん宮崎駿に聞けよww」とバカにしたくなる。人物や物事に対する根拠の無い考察、答えがすぐそこにある暗喩の過大解釈、そういうものは全部無くて良いのではないのか。あえて閉じたものをこじ開ける必要性が、私にはなかなか理解できないことがある。

「たほちゃんって、家族に対してこうだよね、男に対してこうだよね、友達に対してこうだよね」とさして仲良くも無い人間に知ったようなことを言われると、毎度恨みつらみが蓄積してゆく。そうやってあなたが鼻の穴を膨らませながら言っていることは、何一つ当たっていないし、相手の癇にさわるだけだ。「君の知らない物語」でも聴いて出直してこいと。

私がこう思ってしまうことに対して、「他者を通じた自己を拒絶することによって、より深い言及を求めるアンビバレントでサド的求愛行為」とか言われたらもう本当におしまいなんだけどね。

 

 

 

読むだけ無駄なしょうもない話

ここ1週間ちょっと、トイレットペーパー無しの生活をしていた。(書かなくても分かってもらえると思うけど、ボックスティッシュを代用していた)

理由は簡単で、切らしてから新しく買うのをずっと忘れてしまっていたからだ。

夜遅めに帰宅して、手を洗って部屋着に着替えて「ふーっ」と座椅子に座った瞬間に「あ、トイレットペーパー買うの忘れた」となるのだ。それがバカみたいに毎日続いてしまった。もう一生、トイレットペーパーが買えないんじゃないかと思った。

一度部屋着に着替えてリラックスしてしまうと、もう一度着替えて買いに行くということも難しい。学生時代なら余裕でできていたし、なんなら部屋着のまま買いに行っていたと思う。でもそんなバイタリティは労働の日々に揉まれて置き去りにされてしまった。というか別にボックスティッシュで十分事足りているしな、と自分を許す。

 

遂に買えたのも、ほぼ偶然の産物と言って良いもので、その日も案の定頭からトイレットパーパーのことは消え去っていたのだが、スーパーで肉を選んでいる時にトイレットペーパーが目に入った。そのスーパーはなんだか不思議なレイアウトで、肉の冷蔵庫の上にトイレットペーパーが積んであったのだ。迷わず降ろして籠にぶち込んだ。

 

「やっと買えたわ・・・」と思いながら帰宅し、早速トイレに設置しようとしていたら、購入したものがシングルタイプであることに気づいた。私は、薄くて頼りないシングルタイプのトイレットペーパーが嫌いだ。これを12ロールも買ってしまった。

仕方なくシングルタイプをがらがらと使っていても、それまでボックスティッシュを使っていた分、その心許なさに愕然とする。存在を忘れ続けたうえに、気に入らないものを買ってしまう。シンプルに自分の出来の悪さを恨んだ。どうしてこの世にトイレットペーパーのシングルタイプなるものが存在し得るんだろうか。「そうそう、これこれ、やっぱりシングルじゃないとね〜」と言いながら喜んでこれを使う人間がいるのだろうか?

 

もはや断食しか

私の父はいわゆる大食漢で、「いつでも」「なんでも」「どれだけでも」食べれられる人だ。おそらく還暦を迎えようとしているであろう今でも、その食いっぷりは衰えることを知らない。

外食をしていて、家族が食べきれなかった分を全てさらえてしまう。昼ごはんを食べながら、晩ごはんの献立について尋ねる。ギャグみたいなマジの話。私はこれまで出会った男性のなかで、父ほど食べれる人は未だに見たことがない。

一部のネットでは、かような男性のことを「食い尽くし系」と呼んで、わりと嫌われていることが多いらしい。それもなんとなくわかる。食いっぷりの良さは、なかなか上品さとは結びつきにくい。

 

なぜこういう話を書こうとしたかというと、この頃自分がこの父親の特性を受け継いでいるのではないかと気づき始めたからだ。

去年の夏ごろから激辛料理にハマり始め、そのときから「もしかして」と思うようにはなってきた。好みの味のものだと、際限なく食べられるような気分になってくる。

家の近所にかなり美味しいタイ料理屋さんがあることを知って、そこに一人で行くときは毎回なかなかの金額を弾き出してしまう。営業廻りでスタミナ不足を感じたときには、大盛りのカレーを飲み物のように平らげてしまう。朝ごはんにウーバーイーツでケバブをいきなり頼んでしまう。

そして先日は、夕飯とお弁当用にと作ったニラ玉春雨(3人前)を一回の夕飯のみで食べきってしまった。

さすがにやばいだろうよ。

 

昨日ジムのキックボクシングのクラスでミット打ちをやっていたら、インストラクターのお兄ちゃんに「最近、ものすごいインパクトですよ」と(多分)褒められた。インパクトって、この鬼のような形相のことか?と内心かなり焦ったが、少し調べたところ、どうやら打撃の威力が増している的な意味合いらしい。ついに夢のパワー系の仲間入りか

もちろん技術レベルが上がるに伴って、打撃力が増してくることが第一なのだろうが、それと同等に私自身の体重がかなり増えているのではないかという疑念がある。最近は、余計な不安を抱えたくなくて体重計に乗るのをやめている。

おかげさまで風邪なんかはひかない、健康な体であると思う。ただ、毎度毎度良い食事をとっているわけでもない。ジムは通ってわりとしっかり運動している。でもその分むちゃくちゃ腹が減って食べてしまう。しかも量は増える傾向にある。

なんとなく、体内に澱が溜まっている感覚。更に悪いことに、この頃肌の調子も非常に悪い。どうにかならないものだろうか。

そこで思い出したのが「断食」である。

 

職場の美人な先輩が年末の休暇に断食道場に篭り、7日で5キロ痩せたという話を聞いた。体も非常にすっきりするらしい。美人が言うのだから信憑性があるし、日々の努力的なのが難しいこの生活では、こういう短期集中でマインドが変わる体験というのもアリかもしれないと思ったのだ。

今年のGWは嬉しいことに10連休だ。あんまり大した予定もないので、いっそ私も断食道場に行ってみようかと考えている。空腹の限界を超えた自分と体の変化がとても興味深い。

早速断食道場を調べてみると、色々と出てくる。しかし、どれもなかなか高額なのに驚く。「飯も出ないのになんだよこの値段は!」と、この時点で飯に取り憑かれている自分が悲しくなってくる。

 

というか飯も出ない、のであれば自分でやってみれば良いんじゃないか?と思い至る。ただ、いきなり頑張っても健康面での不安がある。なんか良い実用書とかないのかなと探していると、「月曜断食」というワードを発見した。

「月曜断食」とはその名の通り、月曜だけ断食して、その他の日々も一定の規則に従って食事を摂るとみるみる痩せるダイエットという代物のようだ。レビューなんかも見ていると本当に痩せるらしい。内容を詳しくみたところ、真似できなくもなさそうだ。奇しくも、これを閲覧していた日が日曜日で「明日断食できるじゃん!」と手を叩いて喜んだ。

 

結果、月曜から断食に失敗した。昼にサイゼリヤで泣きながらサラダを喰った。

 

「食べない」と決心することが、ここまで現実感のないものだとは思わなかった。

たまに、その日ひとつの物事に没頭して、気がついたら何も食べてなかった!という事態はあるが、「食べない」と決めてしまうと逆に腹の様子ばかりを伺ってしまう。父親から受け継いだ遺伝子が「そんな物事簡単にいくと思うなよ」と私の脳内で光り輝く担々麺の像を結ぶ。

断食道場の価格設定にケチをつけた自分を少し恥じた。100年早かったと思う。

 

今は毎度の量を少しずつ減らしながら普通に食事はしている。荒れている肌は、基礎化粧品を一新したらあっという間に回復した。結局は、やれることを確実にしていく以外にサラリーマンが美を得るチャンスはなかなか無い。「断食」という夢は、働いてジムに通う平日とは乖離している。やっぱり、やるなら道場行くしか無いッショ。

そのうちたほ日記〜断食道場編〜が始まるかもしれません。初日の夜、絶対に子供のときおじいちゃんと食べたロイヤルホストのチョコレートサンデーを思い出して泣くんだろうなあ俺。

 

3月はとにかく飲み会やらなんやらが多くて、どっと疲れが溜まる月だった。先ほど言った体内の澱の原因も、実はこれに集約されているだろう。自分の身の上とか恋愛話とかする(というかさせられる)度に、なかなか理解されず、聞いてる側の小さな幸せの尺度で分かったような物言いをされて、ストレスが蓄積することが多かった。一生、美容と脱毛と酒の失敗の話だけしていたい。でもそれだけでは飽きるから断食という新たな突破口を。私が断食チャレンジして不幸になる人は一人もいないのだから。

 

不審者の告白

つい最近の出来事。私が通っているジムに、不審者が現れた。

見た目40代と思わしき女性。彼女は「ジムを見学したい」としっかりアポ電をしたあと、ジムにやってきたそうだ。私はその時間、他の人と一緒にトレーニングに勤しんでおり、彼女の顔というのははっきりと見ていない。入室してきた後ろ姿だけははっきりと覚えている。まるで就活生のような、あるいは喪服のような、そんな頼りないスーツ姿の女性だった。

一緒にトレーニングをしていた女性、ほかインストラクターのお兄ちゃんに聞いても、彼女の存在にはまるで気づかなかったと言う。私にはそれが不思議でならなかった。

なぜなら、部屋中に彼女のまくし立てる声音が響いていたのを、私はしっかりと聞いていたからだ。自らの腹筋に向き合いながら、私はずっと女の悲痛とも言える声を聞いていた。何を言っているかまでは分からなかったが、ジムの見学ごときで何をそんなに語ることがあるんだと不思議に思っていた。まさか不審者であるとは思わずに。

 

帰り際、彼女を対応していたオーナー(おじさん)に話しかけられた。「いやー、初めて不審者に出くわしてしまいました。来てたの、気づきました?」

私はもちろん気づいていたと首を縦に振り、詳細を尋ねた。オーナーの話によると、彼女はジムを見回し、開口一番「この女性たちは全員騙されている!」「あなた(オーナー)や、あの人(インストラクター)も、人を騙している!!その証拠にほら、みんな変なことを話しているわ!」と喚いたそうだ。そして一通りおかしなことを騒いだ後、最後に「あなたたちも●●(男性のフルネーム)に指示されて、こんなことをしているのね」と吐き捨て帰って言ったらしい。

オーナーは終始「いや〜〜ぼくこんなこと初めてですよ。びっくりしちゃいました。次また来たらどうしようか。たほさんも気をつけてくださいね。」と参った様子だった。インストラクターのお兄ちゃんも話を聞きながら、「俺そんな変なこと言ってたかなー(笑)」と苦笑しているのみであった。

私はその間、彼女が言及していた「●●」が何者なのか気になっていた。

そして今日、昼食をとりながら急にこのことを思い出し、検索をしてみた。

●●は非常にごくありふれた苗字で、私はまず、数年前に少し話題になったとある右翼活動家のことを連想した。しかしフルネームで検索してみると、全く見当違いであった。

●●は、いわゆる結婚詐欺師であり、しかも大手(?)なのか、彼の被害者の会のホームページまでもできている有様であった。こんなあっさりスキャンダラスな平日の昼間を過ごせるとは思わなかった私は、本腰を入れて彼のことについて調べ始め、彼に騙された女性のブログを発見するまでに至った。

詳細は伏せるが、事のあらましは以下の通りである。

被害者のAさんは、独身で寂しい毎日を過ごしている中年女性である。ある日、あまりの孤独から出会いアプリ(私も一時期登録していたものだ)を始め、●●と出会ってしまう。●●はイケメンではない(顔写真も出ている)が高収入で、レディファーストで気がきく男性。なのにちょっとメンタルが弱いところもあってAさんは好意を抱いてしまう。複数台の高級車をローテーションで乗り回したり、彼が経営しているという飲食店が実在していないなど見ていて不可解な点はあったものの、Aさんは好意ゆえにあえて目を瞑り、遂に名義貸し(厳密には違うのかもしれないが私はそう解釈した)をしてしまい、多額の金を奪われてしまう。

そこでブログの更新は止まっており、非常に続きが気になる終わり方である。最初は「書いているうちにめんどくさくなっちゃったのかな」と思ったが、よくよく更新日時を見たら、この一連の詐欺行為がほんの数ヶ月前の出来事であることに気づいてぎょっとした。近いうちに続編がリリースされることだろう。私が新年会でげえげえ吐いている間に彼女は心のどこかでは詐欺師と思っている男に入れ込んでいたことになる。純粋に地球の広さに驚いた。

もちろん、Aさん=ジムに現れた不審な女性という証拠はなく、おそらく別々の人間だろう。どちらも、●●に騙されたone of themでしかない。冷たい言い方だけど。

ブログでは●●の言動が詳細に記述されているが、赤の他人である私からしてみれば「どう考えてもこれは詐欺師やん」と思われるものばかりだ。こんなんに騙されるなんて、アホじゃないのと思うくらいに。

でも、でも、もし私が当事者になったら?完全に回避できるとは言い切れないかも。

 

ジムに現れた彼女の話を、オーナーをはじめとした全員は、狂言として捉えた。カルト宗教に毒された悲しきモンスターの叫び程度として。恵まれない中年女性の狂気として。●●に騙された?はっ、気の毒な。

 

町田康の大傑作「告白」をふと思い出した。すこぶる思弁的で、でも思ったことが言葉として外に出ないことに苛立ち苦しみ続けた熊太郎。何度も心のありのままを放出しようとするけど、失敗し、周りにバカだアホだと侮られ続ける。そんな熊太郎が最後どのようになったかは、みんな小説を読めばいい。要は、私が考えたのは、決して彼女は「不審者」としてではなく、一種の啓蒙として女性が多い場所を廻っているのではないかというひとつの仮説だ。

かと言って、じゃあたほ、お前は彼女の話を真剣に聞いてあげるんだな?と言われたら、もちろんそうは行かない。急に知らない女性が目の前で喚いたら、普通に避けるでしょ。私は決して非道ではない。いましがたの「告白」の話とも矛盾はしてない。ここに人間関係の限界があるんじゃないの?って話なんだよ。

 

あの日、オーナーは私の帰り際に「こんなご時世だから。帰り道、不審者に気をつけて。」と言い、前蹴りのコツを教えてもらった。むしろ私が気をつけるべきは結婚詐欺師じゃないのかと思ったし、結婚詐欺と気づいたときにはもう前蹴りする元気もないほどに追い詰められているだろうとも思った。

 

「寒い海でぐるぐると漂流していたら、どんな島でも見つけたら飛びつきたくなってしまうし、それがゆくゆくは自分の首を絞めてしまうだろう。孤独や苦痛、トラウマや難局ばかりに思いを馳せるから、海の温度は下がっていくのだ。つまりは、自分のいるところが暖かくて平和であることを自覚し、足るを知って生きていかなければ、足場の悪い島で座礁しかねない!!!」

 

もしジムで急にこんなことを口に出したら、私も不審者の仲間入りだろうか。

 

随分と酔っ払った状態でこの記事を書いています。以上。

町田康の「告白」はぜひ読んでください。