たほ日記

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映画ノート:落下の解剖学(ネタバレしません)

gaga.ne.jp

結婚したことによる自分の変化、みたいなことは日頃あまり考えないようにしているが、『落下の解剖学』に深くのめり込み、解像度高く(自分比)鑑賞できたことは短いながら「結婚生活」というものを過ごしてきたからだと思う。

 

これは事故か、自殺か、殺人か―。というキャッチコピーを読むとまるでミステリーの一種のようにも感じるが、別に死因はさして重要ではない。夫の転落死をきっかけにして明らかになる夫婦の様相を描いた映画だと思う。

私は夫とこれを観に行ったのだが、夫にまず感想を聞いたら「面白かったし、観て良かったとも思うけど、好きな映画じゃない。」とのことだった。

 


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ギャガ公式からまさか動画がアップされているとは思わなかったが、この夫婦喧嘩のシーンが本当に強烈に印象に残っている。映画館で観るとこの妻の迫力はYouTubeの5000倍くらいすごい。すごいのだが、いかにも映画の演出・演技という感じは無い。この爆発するような怒り、身に覚えがある気がした。私だけだろうか。

夫はこのシーンについて、「まるで自分が怒られているみたいで本当に嫌だった」と言っていたのも追い風だった。(ここで、「女のヒステリーってやっぱ怖い(笑)」みたいな感想だったら幻滅するところだった)

私は夫と喧嘩したときに、まさしくこのレベルの巨大な怒りをぶちまけることがある。なので、夫が「まるで自分が…」と言ったのは「まるで」というか実際というかなんというか。

夫婦喧嘩のきっかけは本当に些細なことでも、それが日頃の小さなすれ違いを想起させ、なんとなく我慢していたことが一気に噴き出す。過ぎたことをほじくり返すのは喧嘩マナー違反なのかもしれないが、滝のように言葉が流れ落ちて全身を駆け巡り、回収できなくなってくる。夫の心底悲しそうな顔を見ると、自分はモラハラで、映画でいうところの「モンスター」なんじゃないかとものすごく落ち込むときもある。でも、信じてほしいのは、私は結婚生活を終わらせるためではなく、継続させるために怒っているということだ。

私の夫を知っている人がこれを読んだら、「あの男に対して何を怒ることがあるんだ!?」と思うに違いない。私だってそう思う。あんな善良な市民の代表格のような人。でも、これは結婚生活において致命傷ではないと考えているからこそ言えることだが、そういう人と私は本来相性が悪いのだと思う。優しい人とは悪口で盛り上がれないし、他人への接し方の足並みも揃わない。当然、相手にとっても同じで、私とは色々とやりづらいことも多いだろう。それでも結婚することを双方同意して決めたのだ。

怖いことに、結婚生活というのは原則この先一生を共に過ごしていく。『落下の解剖学』の夫婦のように子どもがいれば、より簡単に離れられる関係ではいられなくなる。この先ずっと、本気で向き合わなくてはいけない人間が出来るというのは正直かなりしんどくて、自分の両親はよくやっている、と結婚して初めて感じることもできた。

私は器用で、人付き合いのバランスのいい人間だと思っていたが、結婚生活のプレッシャーはその自信をじわじわと削ってくる。ここ2年近くの生活で、私は器用なのではなく、単に自分の本当の気持ちが伝えるのが苦手なのだということが判明したし、今まで怒りというのは大人同士のコミュニケーションには不要と思っていたが、本心を温度・手触りそのまま、出来立てほやほやで伝えるためには必要な場合があることも知った。自己嫌悪と引き換えに…。

そんなことを日々考えていたタイミングで観たこの映画、このシーンである。夫の目には自分がこのくらい怖く映っている瞬間があるのかと思うと気が滅入ったが、妻が「気が強い女」で終わっていい話では決してないはずだ。

『落下の解剖学』では死んだ夫の物語はほとんど描かれないが、私にはこの夫の一見優しくて良い父親でありながらも、ずるくて情けない姿、拗らせ煮詰まったプライドが手に取るように分かった。じゃなきゃ妻はあんなに怒らない。夫婦は合わせ鏡という言葉が、いよいよ真実味を帯びてくる映画体験だった。

 

文学フリマ京都 お知らせ

文学フリマ京都8に出店します。

2024/1/14 11:00~

京都市勧業館みやこめっせ 1F 第二展示場

こ-17 Sorewata ( https://lit.link/sorewata

 

 

新刊は「それわた3」とコピー本「それわた3.5」

既刊である「それわた1」と「それわた2」も同時に頒布します。

※「それわた1」では私はゲスト寄稿という形です

価格は1-3すべて300円、コピー本は50円です。

 

「それわた3」での、私のラインナップはこちらです。

一応、すべて書き下ろし。(全然ブログ更新してなかったから、当たり前なんだけどね)

①飲まれなかったマウントレーニア物語

とある有名人と仕事をしたときの怒りについて書きました。

 

②男のテンションが下がる瞬間が分かる

これはただの30代っぽい愚痴です。

 

③過去の自分と対話をする―寿嶺二との思い出

学生の頃に運営していた酷いブログの記事を発掘してしまったので、それの紹介をすると同時に、現在の自分の感覚を補足するという実験的なエッセイです。

とにかく私の過去ブログがイタ過ぎるので、他人の黒歴史を見ると共感性羞恥がキツいかも…という方にはおすすめできません。

 

コピー本「それわた3.5」では、ドラマ『マイ・セカンド・アオハル』を完走した私が、自分好みにシナリオを自分勝手にアレンジした「魔改造『マイ・セカンド・アオハル』」というものを書きました。こっちはイベント終了後に公開予定です。

 

ちなみに、noiさんのエッセイを私が勝手に紹介するのもアレなのですが、「雑学」をテーマに書かれた一編が傑作なのでぜひ沢山の人に読んでもらいたいです。

noiさんとの筆力の差が際立って恥ずかしいですが、よろしければお手に取ってください。

通販などについては、追ってアナウンスします。

 

 

 

 

 

 

 

 

新婚雑感

先日夫の高校の卒業アルバムを見る機会があったのだが、なんと高校生時代の彼は茶髪ロン毛にピチピチTシャツ、加えて白クロックスというなかなかのヤンチャスタイルだった。「昔こんなファッションが好きだった」みたいな話も特に聞いたことがなかった分、度肝を抜かれた。

私が知り合ったときには既に菊池亜希子のファンで、「リンネル」(ふわっと優しい暮らし&おしゃれマガジン)を愛読していて、スイーツ好きなふんわりした男性だったので、そのギャップにも困惑した。どのタイミングで、彼は白クロックスからマリメッコの食器にときめくように心がシフトしたのか…。

もし学生時代に彼と知り合っていたら、付き合うなんてまず(見た目の時点では)考えない相手だった。しかし、逆に彼にしてみても、私がロリータファッションに心酔して、ライブ会場で頭を振っていたころは絶対に親しくなろうとは思わなかったであろうことは確かだ。

ちょっと前まで水と油のように全く交わることのないコミュニティに属している人間同士が結婚することになったのだと考えると、本当に人生何が起こるかわからない。

ただし、一つ書いておきたいのは、私はのちに彼が転身する「ふわっと優しい暮らし&おしゃれ」男子が特に好みであるわけではない。私は「寝るときにはちゃんとした綿のパジャマを…」なんて言われても全くピンとこないような人間なので…。

そればかりか、共通する趣味もよく考えたら一つもない。よーーーーく考えても、お互いに飲酒が好き、くらいしかない。朝早くに起こされて「今からお弁当作ってハイキングに行こ♪」と言われたときには悲鳴をあげるし、街中を歩いていて、「これ○○(昔やってたトレンディドラマ)のあのシーンのやつやんな!」とか言われてもそんなもん観たことないわ!と毎回悪態をつくことになる。それでも、なぜか結婚するならこの人だな、というのは確信したのであった。

それまで私は幸い一人でも生きていける算段が取れていたので、まず結婚というもの自体をするかどうかを悩んでいたし、薄々恋愛が好きじゃないということに気づいてきていたので、結婚を前提にしないなら誰とも付き合いたくなかった。

結婚相手に求める条件、なんていうのもよく聞かれたものだけど、明確なものは何一つなかった。これは「そんな私でも素敵な人と出会えて結婚できました!ミャハ☆」みたいな話ではなく、周りはどうだったのかと真剣に聞いて回りたいくらいの事柄である。

話が少し逸れるようだが、とある私の女友達は、全国知らない人はいないであろう大学を出ている。現在婚活アプリを使っているのだが、最近プロフィールに出身大学を記載した瞬間、「いいね」を貰える数が格段に減ったらしい。「出身大学で引いちゃうような男、こっちから願い下げだよねー!」なんて話していたが、いいねを控えた彼らは、ある意味結婚相手に求める条件がはっきりしている人種なのかもしれない。私は配偶者は頭がいい(勉強ができる)に越したことはないと思うのだが、そうはいかないのだろう。

その点、私の夫は人の学歴をいちいち気にしたりはしないタイプなのでいいよなあ、なんて考えていたら、私はもしかして「減点方式」で男性を評価しており、夫はたまたま落ち度が少ないから結婚したのでは?という大変失礼極まりない仮説が生まれてしまう。もし彼の親御さんがこのブログを見ていたら、シバき回されるに違いない。

でも、まじめな話、これはこれで重要な着眼点だと我ながら思う。だって、当たり前の話だが「顔がすき!」や「収入が高い!」と一点豪華で相手を愛してしまうと、それが何かで衰えたり失われてしまったときに取り返しのつかないことになる。「私のことをこれだけ愛してくれているから好き」というのも危険だ。浮気されたときに精神が破綻する。

そういう意味では夫は私にとってかなり強力な「バランサー」であり、どの分野とってもわりと好き、という点で結婚したいと考えたのだと思う。そして、ほぼ間違いなく彼も私に対して同じ評価をしている。趣味で女性ファッション誌を読み、素敵なミッドセンチュリーのインテリアに心ときめかせ、カフェラテを飲み、好きなタイプは多部未華子。私みたいな元ゴスロリのせいでファッションセンスがバグっていて、蒙古タンメンばっかり食べていて、バラエティ番組では下ネタの部分だけ笑っちゃったりする、泣く子も黙る大味な顔の女。普通に考えたら好きなわけない。でも、彼の価値基準のなかでは、奇跡的に減点もされていないのだと思う。

周囲の人に結婚報告をした際に、「お互いのどこが好きで結婚したの?」と毎回聞かれるのだが、お互いに曖昧な回答しかできない。(一緒にいて気が楽な点ですかね、みたいな)でもこれは照れ隠しもあるけど、本当のところでもあり、なにひとつ明確な繋がりがないのだ。

今はそのファジーさが私にとっては気楽なのだが、きっと今後もし子どもが出来たときには、これが初めての「明確な繋がり」になるのだと思う。そのときに初めて私たち夫婦は新しいフェーズに入ることになるのだろう。だからこそ真剣に考えなくてはいけない。やっぱり家族というのは重たい。

読書ノート:あいちトリエンナーレ「展示中止」事件 表現の不自由と日本

 

 

 2019年8月、私は一人であいちトリエンナーレを見に行った。大雨に見舞われた非常に天気の悪い日だった。驚くほど人が少ないし、ボイコットにより多くの作品が展示が取り下げられ、正直ほとんど見ごたえがなく、心も特に動かされない期待外れな芸術祭だった。印象に残っているのは、会場の端でスタッフと話し込む金髪の津田大介氏の姿と、名古屋市美術館の常設展くらいだ。

この見ごたえがない芸術祭を作り出したのが、「表現の不自由展」事件であるわけだが、結局これがどういう事件だったのか私には未だに全貌がよくわからず、テレビもネットもどうも極端な表現が目立ち、情報として信用しづらいと感じたので、今更ながらこの本を選んだ。大村知事のリコール騒動があったり、河村たかし氏が名古屋市長選で再選されたりもきっかけのひとつだ。

表現の不自由展の実行委員会の会員による、事件の始まりから現在までを細かく描いた手記を中心に、日本の右傾化、そして「検閲」がいかに深刻化しているかを伝えている。

私はこの事件に関して、マスコミの作る河村市長VS大村知事という構図や、やけに大村知事がネットで「ごく常識的な観点で、表現の自由を守った」みたいに評価されていることに違和感を感じていたが、読み進めるうちにそんな小さな規模の話ではなく、愛知はただの舞台に過ぎず、大村知事もいわゆる中間管理職の仕事を頑張っていたんだという感じで、自分の直感(違和感)は案外正しかったのかもしれない、と思えた。

肝心の展示作品についての解説が一番勉強になった。報道では少女像(慰安婦像)が展示されている、昭和天皇の写真が燃やされている、など日本人にわかりやすい断片的な言葉で作品が形容されてきた。

私も恥ずかしながら少女像の関しては、反日プロパガンダ的な意味合いを常々感じていた口だが、これは慰安婦だけの問題ではなく、慰安婦問題を端緒に女性に対する性暴力全体に対する抗議を込めた作品であることを理解した。造形についても少女の彫刻ではあるが、影はハルモニ(おばあさん)になっており、加害者の謝罪を受けられないまま耐えてきた歳月や恨(ハン)のこもった時間を表現しているということを初めて知り、印象はずいぶんと変わったし、実物をぜひとも見てみたいとさえ思った。

昭和天皇の写真についても、まあ皇族じゃなくても自分の大好きなおじいちゃんおばあちゃんの写真が燃やされている映像を「アートです」なんて言われても嫌だよなあ、程度に考えていたが、この写真はそもそも「自画像」作品の一部として使用したもので、それこそ検閲によって図録が燃やされてしまった様子を撮影しているもの…と知り閉口。「なら立派なアートだね」と言い切るわけでもないが、この情報だけでも作品の奥行を感じ、再考しようという気持ちにさせられる。やはり内容をよく知らないまま脊髄反射的に物事を批判したりするのは、のちに恥をかくことに繋がる。

私自身、受験科目で日本史を選択していたものの、日本の戦争の歴史についての感覚はかなり鈍い自覚がある。

前職で、クソジジイ客が在日韓国人のスタッフを怒鳴り、「これだから韓国人は」的な発言をし、スタッフ全員真っ青になったことがあった。これを横で聞いていたドイツ人のスタッフが「ドイツ人がユダヤ人嫌い、って発言するくらい角が立つことだ」と後に言っていたが、私はそれを聞いたときに「そうかそのレベルだよな」と急に自覚的になった瞬間があった。ナチスユダヤ人にしたことは学んであれだけ印象に残り、本当にむごいことだと思っていたが、これと日本と韓国の関係性が相似であることはイメージできてなかったということだ。自らが学んできた日本史の教科書のバイアスというものを感じざるを得なかったし、現在一部の政治家や識者の歴史修正主義的(慰安婦はいないし、虐殺もなかったみたいな)発言がいかに慎重に扱われるべきなのかを再認識させられた。被害者が現にいる世界で、こんなこと、ワイドショーで軽々しく発言できるようなことじゃないよね。

私は日々世の中のいろいろな問題が右翼VS左翼ないしはネトウヨVSパヨク的な展開になっているのを見てはうんざりし、そのどちらにもつきたくないというかつけないと考えているし、この本を読んでいても、正直所々うざったいなと感じてしまった部分があった。(愛知という土地自体が保守的な人間が多いみたいな話や『Will』を読むおじさんをくさすコラムとか。いらない。)

しかし、もういい年なんだし、意見を求められたら答えられるようになるくらいの人間にはなりたい。特に表現の自由については、別に私はアーティストでもなんでもないが、表現の自由が守られない世の中になると、自分が今まで楽しんできたメディアすべてが消えてしまうのだから、本当にこれは私の問題だ。

あいちトリエンナーレ行ったときのつまらなさ。実はあれはあれで貴重で、忘れてはいけないのかもしれない。

こういう本は読み続けながらも、鵜呑みにせずに自分の中の参考資料として保管できるくらいの訓練はしておきたい。でもさすがにちょっと疲れたので、次は大好きな作家の小説を読みます。

読書ノート:〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する

 

〈妊婦〉アート論

〈妊婦〉アート論

 

 結婚するに差し当たり、周りの人から「ちょっと気が早いけど」という枕詞とともに、子どもについてどう考えているのか、と質問される機会が増えた。なかには、子どもを作ることを前提に「絶対に無痛分娩がおすすめ!」などと自らの体験談を語る本当に気の早い人もいる。子どもは好きだし、自分の子どもというものに興味はあるので、他人に何を聞かれても特段嫌な気持ちにもならない。

しかし、先日母親から「子どもは35歳までに絶対に産みなさい」と言われてめちゃくちゃに腹が立った。強制されるようなことじゃないと思うし、というか、正直母親がこういうことを常日頃考えていることを知って失望した、という感覚に近い。

でも、本来子どもを作ることを念頭に置いて生きているなら、こんな立腹することもなく「はいはい」で流せたはずなので、自分のどこかに手放しで出産を望めない要素があるのだと気づかされた。考えた末、私は出産・子育てのことよりも妊娠することについてどこか抵抗感があるのではないか、という一つの仮定にたどり着いた。他人のマタニティフォトを目にしたときの「あの気持ち」、電車内で見かける「おなかに赤ちゃんがいます」のキーホルダー、産婦人科の待合室で母子手帳を握りしめる女性たち。

 

この本には、簡単に言えば「見せ物としての妊娠・妊婦」を様々なアプローチで観察分析している。(マタニティフォト、日本文学、妊娠したリカちゃん人形、産婆育成用の胎盤人形など)違ったらごめんなさい。

私が特にハマったのは第3章の〈「妊娠」を奪取するー女性作家による「妊娠」表象を読む〉で、倉橋由美子の「パルタイ」や小川洋子の「妊娠カレンダー」、内田春菊など、私の思春期の読書体験に欠かせない面々が紹介されており、他人事ではなかった。ただ、上記3つがすべて「悪女の妊娠」の項目に挙げられており、少々きまりが悪いが…。

男性に支配された妊娠に陥るわけではない、胎児に対する加虐志向も一切ない、ただその妊娠という状態から感じさせられる異物感や、妊婦の摂食や精神状態のゆらぎとか、そういったものを小説のなかで変に体験してしまったものだから、30歳間近になっても、妊娠がひとえに幸せの象徴として受け入れられないし、その状態に自分がなることが怖い。

雑談レベルで、この不安を夫(となる人、まだ入籍していない)に話してみたら「それ(精神状態がゆらぐことなど)は人によるだろうし、仕方のないこと。そういうときは二人で一緒に頑張ろう」そして、「子どもがいたらきっと楽しいと思うよ」。

そりゃそうだよね、わかる、わかるよ。ただ私が不安に思っている精神のゆらぎは、単に悪阻でぐったりしたり、細かいことでイライラしたり悲観的になって泣き出すことだけではなく、インスタグラムにエコー写真をアップしたり、自分のマタニティフォトの暑中見舞いとかを出すことも含まれる。

その行為自体を決して批判しているわけではない。今の自分がまるでやらなさそうなことをやりたくなることが私にとって問題なのだ。ずいぶん気の早い話だけど。

鬼滅の刃の感想

※一応ネタバレ注意ということで。

 

近ごろ上司が私のことを「〇〇少年」と呼んできていて、まあ私は少女っていうよりかは少年って感じだよな…と自分で勝手に解釈しつつ流していたら、これの元ネタが鬼滅の刃であることが最近やっとわかった。煉獄さんが「竈門少年!」って呼ぶアレ。

 

漫画未読、アニメ未視聴で「劇場版鬼滅の刃 無限列車編」を鑑賞した。

厳密にいうと、アニメは1話のみアマゾンプライムで観たのだが続かなかった。「暗いな。」と思って。加えて、1話の冨岡義勇が炭治郎の戦術をずーっっと細かく説明しているシーンに辟易してしまったのもある。死語かもしれないが「説明乙」という言葉が浮かんだ。

ただ、この過剰に説明するのも徹底すればそれは「わかりやすさ」というものに直結し、ひいては劇場版の大ヒットを生み出している。原作のことをあんまり知らなくても、誰でもストーリーは理解できてしまうのだ。

だから、インスタントに感動はできる。偉そうに語っている私も終盤泣いた。(泣いたシーンについては後述する)クライマックスの煉獄さんのお説教シーンは音楽も相まって非常に感動的だった。

それでも、私が手放しに「すげえ良かった!!」とも正直ならなかったのは2つポイントがある。

①キャラクター萌えがしにくい ②腑に落ちないストーリー

まず、①は単にキャラクターや原作に対する知識・理解不足で、完全に私の落ち度に起因する。はっきり言って、あの劇場版を観ただけでは私にとって煉獄さんは「登場したはいいもののすぐ死んだ人」になってしまい、CV.日野聡という素晴らしい恩寵も最大限に甘受できないままになってしまった。

そして、尺の問題があるから当然のこと、活躍するキャラクターは実質3人といった感じで、それ以外のキャラのサービスシーンはほぼ皆無という印象だった。たとえば、善逸の大ファンとかはあれをどういう気持ちで観ていたのだろうとは思う。原作もそういう話だからと言われればそれまでなのだが、死にかけの夢が「(一人ずつ)あいつもすごかった…」と振り返るシーンを用意するくらいなら、もっとそれぞれを活躍させてやれよと思ってしまう。

②については原作にケチをつけるようでもっと悪質な感想なのだが、煉獄さんがあんな必死に戦った猗窩座が死なないで逃げたのがめちゃくちゃモヤモヤしてしまった。

あそこで煉獄さんないしは鬼殺隊の誰かがにスパッととどめを刺してくれて無事に退治!となったほうが明らかにスカッとする。まあ、そういうところでスカッとジャパン的な感動ポルノに成り下がらない点が、かえってストーリーの芯を強く仕上げているのかもしれない。っていうかそもそも、原作の途中を切り取った映画なのだから、何をどう言おうとそういう物語なのだ。わかる。わかるんだよ、わかるんだけど!!それで「千と千尋の神隠し」超えちゃうの!?とは思ってしまった。

(自分で書いてて、自分の感想が「老いているな」と感じる。)

 

これで終わらせたら過激な鬼滅キッズに卵を投げつけられるかもしれないので、良かった点も書く。まず、キャスト陣が骨太で、声優大好きおばさんな私は大喜びしてしまった。最近、アプリゲームやシチュエーションCD界隈でもどんどん若い声優が登場して、ついてこれなくなってしまった私にとっては、非常にうれしい要素だった。特に魘夢なんかは、平川大輔の声前提に作られたキャラクターとしか思えなかった。

そして何より、炭治郎の主人公像に心打たれた。話が逸れるようだが…この前、田嶋陽子先生がテレビで「鬼滅の刃」について「家族というものに思い悩む若い人たちにとっては大いに結構だろうが、私みたいに家族問題の解決策を自分なりに見つけた人間にはそこまで響かない」というような趣旨の感想を述べられていて、それでいうと私は後者に当てはまり、竈門一家をはじめとしたそれぞれの家庭観や澄み渡る家族愛に打ちひしがれることはなかった。(それでも、炭治郎の「俺の家族がそんなこと言うわけないだろー!」というセリフは、当たり前ながらにも新鮮に感じた)

私が泣いたというのも、煉獄さんの殉死に面する炭治郎が、「一つなにかできるようになったと思ったら、更に大きな壁があらわれる…(記憶曖昧)」といったことを言っていた点で、ここでやっと私は初めて鬼滅の刃で共感というものを感じた。同時に、こんなに心がきれいなのに家族が惨殺されてしまったことが改めて不憫になってしまい、更に涙を誘った。「鬼滅の刃」は私にとって、一歩間違えればかわいそうで見てられない話になりかねないくらいだ。そして、キメツって主人公が心優しくて、他人を倒して強くなる!みたいな感じじゃないのがいいよね、って思う中高生が多くいることは心強いし、雑だが「令和だな~」と思う。

 

劇場版を観て、じゃあアニメも全部振り返ってみよう、漫画も読もう!と思ったかと聞かれると、「そこまででは~」というのが正直な感想ではあるが、観ないまま生き残れる世の中でもなさそうなので、そういう面では観てよかったし、いろいろな人の見解が見聞きできるのは大変面白い。あと、地味に「○○少年」の元ネタが分かったのもよかった。これからもそういう世間一般の小ネタには反応できる大人でありたい。

 

婚約雑感

プロポーズされたら、まず真っ先にtwitterに書くと思っていた。婚約指輪、顔は隠すものの優しげな雰囲気は伝わるような彼とのツーショット、指輪と一緒にもらった手紙。そのすべての写真とともに「えへへ婚約しちゃいました♡」としれっと投稿すると思っていた。

でも、いざとなるとそのどれも発信する気になれなかった。実感がすぐに湧いてこなかったというのもあるし、意外にも「プロポーズされた!イエーイ!」というウキウキした気分が持ち上がらなかったのもある。まじめな話、あれはSNS向きでない、非常に深い感動が私の心を占めた瞬間だった。

 

そもそもプロポーズ自体も唐突で、まさかの彼の誕生日に指輪を受け取った。(彼は友達から「お前自分大好きだなw」とからかわれたらしい)普通こういうのって私の誕生日とかじゃないの?と思ったが、私に「そろそろかな」としたり顔で待ち構えられるのが嫌で先手を切ったとのこと。

別にいいじゃんね、したり顔で待ってても。と思うが、そういう人なのだ。というか、そういえば付き合うことになったときも、何の前触れもなくいきなり「付き合ってほしい」と言われ、回答を持ち帰らせてもらうこともできず、その場で付き合うことを決めたことを思い出した。その妙なせっかちさには、日ごろ何かと察しが良い私もいつも驚かせてもらっている。去年のクリスマスも驚かされることがあったし、彼はこれまで出会ってきた男性のなかでも、段違いでサプライズが上手い人間だといえる。

泣きそうで意外と泣かないと評判の私ですが、手元に婚約指輪の光が点ったときにはさすがに涙がほろり。(相手も泣いてたけどね)指輪は私が雑談レベルで「あこがれるわ~」と言っていたブランドのもので、かなり高額だっただろうという現実的な点はもちろん、そのブランドを記憶していていてくれたことも感動的だった。普段は私が何回同じ話をしても新鮮な反応を返してくれるくらい、私の話をあんまり聞いていない男性が、である…。

 

ところで私は乙女ゲームが好きで、プロポーズは山ほど疑似体験している。ダントツお気に入り「AMNESIA LATER」のトーマルートのプロポーズシーンなんて今でもセリフを暗唱できるくらい何回もプレイした。現実の男とうまくいかなくなったら、必ず再生するお気に入りのシーンだ。CV.日野聡で「だからさ、俺の奥さんになってよ。」「お前の返事は?」ってね!??くぅ~~~~~~~;;;そして結婚式でぜったい流したいBGM、「たったひとりへの恋心」…。(今なんとなくyoutubeで流したら死んだ。)

BGMはさておき、実際に私が言われた言葉は、どのルートの追体験では無かったし(当たり前か)、特殊な演出も無かったのだが(当たり前か)、なんなら「ほな、結婚しよか」くらいのテンション感だったが、やっぱり特別な瞬間だった。

それからしばらくは毎晩婚約指輪を指に嵌めては小一時間眺めてはほくほく顔になったり、売りに出されている都内のマンションの間取りをネットで検索したりなどして、少しずつ花嫁テンションの下ごしらえをする日々だった。

 

ようやく、友人たちにちょこちょこ報告し始めたのも、一応自分の家族に報告して、関西に住む相手の家族にも会って…となんとなくひと段落ついた後だ。「おめでとう」とみんな祝福してくれて、花束を貰ったり、いいこと尽くしである。でも、面白いことに嫌味を言ってくる人(だいたい既婚者)もちゃっかりいたりして、人生の新しい深みのタームに入ったな…と武者震いする瞬間もある。結婚の真価くらい、自分の経験から判断させてほしいと思うものだが、少なくとも一筋縄でいかないということは周囲を見ても明らかである。私にもいつか、結婚が決まった若い女性に嫌味を言う瞬間が訪れるのだろうか。理想と現実は違うからね、なんて言ってしまうのだろうか。

しかし、私は漠然と結婚願望は持っていたものの、結婚自体に良いイメージを持っているのかと聞かれたら「?」状態で、自分が育った家庭のことを振り返っても、あんまり家庭を作ることに憧れを持っているとは言えなかった人間だ。もとから、強い理想も持ち合わせていないし、経済的には自立できていると思うので、必要性も無いといえば無かった。

そんな私がじゃあ実際に結婚しましょうね、という気持ちに至ったのはシンプルにいえば相手がその人だったから、という月並みな言葉に落ち着いてしまうのだが、人柄と同時に相手が結婚に対して前向きで、積極的に舵を切ってくれたのも大きい。今まで自分のケツは自分で拭くんですよ、みたいな環境で常に自己責任と隣り合わせで突き進んできた人生だったから、人が何かを一緒に進めてくれる心地よさを初めて知ったのだ。

今のハッピーなうちに何か偉そうなことが言えるとすれば、「結婚するの?しないの?」とこちらが詰め寄らなくていけない状態を作り出す男とは結婚しないほうがいいということだ。そういうやつは、自分の好きなことしか決めないと思う。

 

さて、これから新居をどうするのだの結婚式をどうするのだの決めなくてはならないのだが、いかんせんこのコロナ蔓延状態ではどうも進行が難しい。今は何か新しいことを決める段階ではない、それは誰にとっても当てはまるだろう。

そんな中でも、結婚しようと自然に決められたことは大変心強いことなんだとは思う。所感としては、この気持ちは大切に、これからも地に足のついた生活を維持していきたいと思っている。悲しいことに人生は結構長く、途中で何かが破綻してしまうときが訪れるかもしれないが、それはそれで仕方ない。そう軽く思えるくらいには、とりあえず今とても満足してる。