たほ日記

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ボランティアの扉を叩く

先日実に良いタイミングに恵まれ、学習支援に携わる方の話を聞き、実際に現場を見学させてもらった。ここでいう学習支援とは、家庭の経済的な事情によって塾に行けない子どもに無償で勉強を教えるボランティアのことを指す。

そういう現場があることはなんとなく知っていたが、実際に行ってみようとなるまでには結構な葛藤があった。まず私には学習指導の経験がほぼゼロである。学生時代、ありとあらゆるアルバイトを経験してきたが、人に何か教えることだけは全く触れてこなかった。部活やサークルに打ち込んでいたタイプでもないので、後輩という存在すらあまりピンと来ないレベルだ。そして、もちろんボランティアの経験もゼロ。

学習指導自体は慣れればなんとかなるだろうと楽観的に見ていたが、ボランティアについては意識的に避けて来たという部分もあったので余計迷いがあった。私の手に負えないリベラルがそこにありそうだからだ。話を聞きに行ったら最後、「安倍政治をゆるさない、戦争法(安保法制)反対、脱原発!」などと唱えられ、首を縦に振らないと帰らせてもらえなかったらどうしようという不安があった(今挙げたような思想が悪いとは特に思っていないとして)。

しかしこんな妄想ばかりしていても事は一向に進まない。せっかくチャンスが目の前にあるのだ。もし、その場で少しでも政治色もしくは宗教色のある「勧誘」があったらお茶を濁して逃げよう。加えて、実は活動内容が私が思っている以上に福祉性が強かったらこれも(荷が重いので)丁重にお断りしよう。以上のマイルールを取り決め、私は決意を固め向かったのであった。

結論から先に言うと、このマイルールは杞憂であり、私のボランティアに対する負のイメージはひとまず払拭された。(よく考えたら今回のこの活動は運営元の肩書きからして「勧誘」は有り得ないことであり、単に私の考えすぎだった。)逆に、「政治や宗教を超えた、もっと高い次元の理念をもとに活動している」みたいな感動も特に無かった。なんというか、みんな淡々と目の前の業務をこなしているという印象に近い。

話をしてくれた方も「聞いてみて違うなと思ったら全然帰ってもらって大丈夫なので。」と何だかクール。まず、基礎知識として貧困家庭の子どもがおかれている教育問題についての語ってくれた。これが知っているようで知らないことが多く、非常に勉強になった。

日本には「子どもの教育」という面で見過ごせない問題が山積みになっている。私たちそれを知ったり、実際に目の当たりにしたりすると、思わず社会を抜本的に変えられないものかと憂いてしまいがちだが、それよりもまず目の前の子どもにできることをやっていこうよ、というのが活動の趣旨。とてもシンプルでわかりやすい。

そこから話は実践編に移る。実際の活動内容の説明と、学習指導における簡単なレクチャー(指導教科の分担から異性の子どもに接する際の注意事項まで幅広い)を受けたあと、さあ現場を見てみましょうということで近くの大部屋へ早速移動。

レクチャーのなかで、家庭に事情を抱えている子どもの傾向の一つとして「試し行動」(初対面の大人にあえて反抗的な態度をとって様子を窺う)というものがあると聞いて少しビビった。「(分かっていても、いきなりそんな態度取られたらショックだろうな…)」と思いながら扉を開けたが、そこは至って平和な雰囲気だった。陽の差す明るい部屋で子どもは各々自分のペースで勉強し、わからないところがあるようなら大人(大学生からおじいさんまでいた)が近すぎない距離感で淡々と教えてあげる。これが適切な言葉かは分からないが、ボランティアらしい色や個性は全く無かった。私の随分身勝手なイメージで、もう少し暗い雰囲気の子どもと奉仕に勤しむ大人のコントラストがあると思っていた分、この光景はまさにリアルだったといえる。

「子どもたちが行きたくない場になってしまったら元も子も無いので、指導するような言動は控えてください」という説明があった通り、指導ではなく支援というスタンスが一貫している。そのお陰か、学校や塾ではお目にかかれない優しい時間が流れていた。私も部屋をくるくると周りながら、使用されているテキストなどをさりげなく観察し、一言二言子どもと会話をしてみる。話しかけると「試し行動」はおろかみんな驚くほど素直でびっくりする。私のほうが人見知りじゃないかと恥ずかしくなるくらいだった。

最初に話をしてくれた人の「何はともあれ子どもは本当に可愛いですよ。私は現場の仕事がとても好きです。」という言葉が脳内をよぎり、とてもよく分かる、と噛み締めた。この子たちみんな幸せになってほしいなと心から思い、なぜか目頭が熱くなった。私は子どもは好きだが、日頃こういうことを想っているタイプでは全くないので、どうしてこんなに気持ちが昂ぶったのかはよくわからない。ボランティアマジックだろうか。

子どもたちが帰った後のちょっとしたミーティングも見学させてもらった。子どもがいなくなるだけで場の空気が一変するのが面白かった。失礼かもしれないが、空気が少しだけ錆びる。私でもよく知っている、どこにでもあるお馴染みのミーティングのひな形だ。ここで初めてボランティアの大人それぞれの個性が見えてくる。

例えば、「Aくんは今日この教科のここが苦手だったようだけど、次回はどのように教えましょうか?」といった話題について、「そもそも日本の学習指導要領は〜…自分が海外に住んでいたときは〜…」と言い出す人がいたのにはギョッとしたし、司会役がそれをうまーく適切にいなしていたのは感動した。色々な人が集まってくる場なので、日本を憂う小難しい人間の相手も皆お手の物なのだろう。口の悪い私なら「うわ〜(笑)今その話要らなくないですか?」とか反射的に言いかねないので、こういった面でもとても勉強になる。

 

帰りがけに、大学生の女の子から「毎回こんな感じでやっていますので、お忙しいとは思いますが、お時間あるときにお力を貸してください。今日はありがとうございました。」と声をかけられた。小柄で可愛らしく、とても心が綺麗そうな女の子だった。私が大学生のときは周りにこんな子一人もいなかった。私は社会人生活を経て徐々に老婆心が目覚めこのようなことを始めた次第だが、この子は学生の時点で目を向け活躍しているのだ。彼女たちのことを何も知らないで「意識高い系(笑)」とか「カンボジアに井戸掘ってる系男子(笑)」とか揶揄してた頃の自分をぶっ飛ばしてやりたい。

私も、学生時代に煙草をバカスカ吸いながら大量のビールを飲んでは即座に吐き、吐いたものを見て「え、これまたビールとして飲めるレベルで新鮮じゃね?」とか騒いでいる暇があれば、もう少し頭を働かせて色々な現場を見に行ってみれば良かったと思う。新しく物事を始めるに遅すぎるということは無いのだろうが、子どもにスポットライトを置いた活動は、学生のうちからやっておけば良かったと思うことの一つだ。子どもにとっても学生のほうがきっと親しみやすいし、学生にとってもまだ子どもの視点を完全に忘れていないので、より適性があるように思う。働き始めると、どうも余計なことばかり言い出したくなってしまう。

一方で、帰り道が一緒になった主婦の人からは「まだまだ遊び足りないくらい若いのに、とても偉いですね(文字におこすと微妙だが、全く嫌味ではなかった)」と言われた。そうか、私はまだまだ遊び足りないくらい若いのか。なのにボランティアをやろうとしてる。若いのに。確かにふと「私どこに向かってるんだろう?」と思うことはある。でも、毎日フルスロットルで遊びまくろうという気持ちは、もはや薄れつつある。そういう意味では今までバカみたいに飲みまくってたのも悪ではなかったといえるのか。

とりあえず、やれるだけやってみようと思った。新たな場所でこちらも無償で勉強させていただくのだ。

 

昨日母と電話をし、最近の休日はどう過ごしているのかと尋ねられ「家庭に事情がある子どもに勉強を教えようと思っている」と答えた。すると母は絶句したのち「また突拍子もないこと始めるんだねアンタは。立派だけどさ…まさか宗教とかじゃないよね?」と言い、私は笑って否定した。やっぱり、入口はそうなるよね。