たほ日記

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パワハラ雑感

6/1にパワハラ防止法なるものが施行されたらしい。私はこれを昨日初めて知った。パワハラを日々身近に感じながらも、政治や社会がパワハラとどう向き合い、どう対策を練っているかということについてはまるで無頓着だったのである。当然、これが施行されることが希望になるとは微塵も思っていない。

 

ヒプノシスマイク」の観音寺独歩くんの「BLACK OR WHITE」という曲がある。元サラリーマンのDOTAMAが作詞したことでも話題なサラリーマンラップで、過酷な労働環境で奮闘する独歩くんの生き様つーか有り様を刻々と積み上げているような曲であるが、私はこの歌詞とほぼ同じような生活をしている。本当は疲れ果てた推しを労わりつつもそこにセクシーさを感じるような言うなれば「過労萌え」がしたかったのに、それよりも自分の労働の異常さを再確認してしまうという事態だ。

※念のために書いておくが、完全一致しているわけではない。「社訓の唱和」はしないけど、「営業部長からの売り上げ向上号令」みたいなのを立って聞かされるみたいなことは往々にしてある、という近しさ。仕事で終電なくさないが、その分朝5時に出社するということもある。

これに加えて、私が最近悩んでいるのはパワハラである。しかし、自分がパワハラの被害を受けているわけではない。厳密に言うと、私の働いている部署の隣の部署が壮絶なパワハラ上司の管理下にあり、常に彼の部下に対する罵声がBGMとして流れているのである。

どういった内容で怒鳴っているかは意識的に聞かないようにしているので不明だが、大した問題でないことは容易に想像つく。彼は管理職が実務から遠ざかったばかりに暇になり、部下の粗を探しをしては叱責することくらいしかやることがなくなってしまっているようだ。相手はたまったものじゃないと思うが・・・

ある日、ひどい叱責を受けた人が職場で気を失ってしまったことがあった。私が思わず駈け寄ろうとしたら、パワハラ上司が私の近くに立っていたパーテーションを蹴り飛ばし、威嚇した。さすがに私も何もできなくなる。その後、救急車が来た。

その時はさすがに「こんなのおかしい!変えたほうがいい!」と考えた。ただ、会社にはあくまで仕事をしに行っているだけであり、それで特に不満も無い給料を貰っているのだから、生活を第一に、あまり余計なことは考えないほうがいい。そもそも私はパワハラの標的になっていないのだから、無視して「自分さえよければいい」という態度を貫いたほうがクレバーだ、そんなことを自分に言い聞かせながら働いてきた。

せめて隣のパワハラ部署に異動させられないように、私は今の部署でできる業務をしっかりと遂行することが必要だと考え、仕事に励んだ。私の代わりができないために、新規事業も一人でバンバン開拓し、僅かながら売り上げを立てた。ちょっとしたやりがいはある。だけど、この売り上げって遠回しにパワハラの恐怖が活きた結果なんじゃないかとふと思う瞬間がある。悪い歯車を自分が積極的に回しに行っているような感覚もあり、うっすらと自己嫌悪が宿っていた。

そしてつい先日もパワハラ上司が別部署の人間と「言った言わない」の非常に低レベルな怒鳴り合いをしていた。それを聞いて遂に私はちゃんとした大学まで出てどうしてこんなクソみたいな男よりも下の立場で働かなくちゃいけないんだろう、と悩み始めるまでに至った。どうやら巷には「環境型パワハラ」という用語も存在し、私の置かれている立場はこれに当てはまるのだろうが、今の私の問題はパワハラとどう付き合い、どうあしらっていくのか、ということから、一人のプライドを持った人間としてここに居続けてもいいのだろうかというところにまで発展している。

その日の夜、私は彼氏に「もう会社やめたいかも」と初めて言ってみた。彼は私の話を一通り聞いたあと、しばらくして「本当にやめたいなら、やめてもいいと思うよ。ただ、実際にやめる前にもう一度ちゃんと相談してね。」と言った。こうやって優しく冷静なコミュニケーションをとってくれる相手がいるという時点で私は大勝利を収めているのかもしれない。ただ、やはり「パワハラしたもの勝ち」という構図に組み敷かれていることには変わりないという認識は残っている。私のなけなしの正義感が、迷子になった幼女のように所在なさげにしている。

どれだけ考えても、パワハラ上司に対して、突如反旗を翻し、真っ向勝負にでるという考えには及ばなかった。これが成功して救われる人はいるかもしれないが、申し訳ないけど私は私のメンツと収入が一番大切だ。

 

それであなたはいいの?幸せなの?と訊ねてくる人はいるだろう。昔のお前はそうじゃなかったはずだと。野暮な質問はよしてくれ。誰も今さら観音坂独歩くんについて「そんなキャラ設定でいいんですか?過労で苦しんで自殺している人だっているんですよ?」と公式に問い合わせる人がいないように、労働と暴力とそれの慣習化は、あまりにもシームレスに繋がっているんだと思う。当事者じゃないくせにそんなこと言って、と私を軽蔑する人がいるかもしれない。でも、勘弁してほしい。私だってもう充分傷ついている。

ストロング系チューハイ怖いんだよなんとかしてくれ

混濁した意識の中、急激な腹痛で目を覚ました。トイレに駆け込んだあと部屋に戻ると、テーブルの上には大量の冷凍食品やお菓子を暴食した形跡があり、それを見て吐き気が一気にぶり返してきた。ラップトップが開きっぱなしで、どうやらちょっと仕事もしていたらしい。頼まれてもないのに?意味不明だ。そしてその脇にはストロング系チューハイの350缶1本が、ぽつんと鎮座していた。

 

ストロング系チューハイは、普段絶対に買わないようにしている。なぜなら、1年ほど前に初めて飲んだときに盛大に体調を崩し、白湯を何度も胃に入れては吐くというセルフ胃洗浄を半日かけてやっと生還したという経験があったからだ。

当時はストロング系の恐ろしさを知らないで、ビールを飲むようなペースで飲んだからそうなったのは事実。ただ、あの時の本能的な恐怖はなかなか拭えず、宅飲みの場などでその場にあっても手を付けず、勧められてもシレっと回避していたのだ。

でも、今日何を血迷ったのかひさびさに飲んでしまった。冷蔵庫のなかに一本取り残されていたのだ。(おそらく依然友達が家に遊びに来た時に買ってきてくれたものがそのままだったのだ)

350缶を1本だけ、自宅で、自分のペースで飲める。誰にも迷惑を掛けようがない、という後ろ盾はあったのだ。でもこれ今考えてみると、最近流行りの「オンライン飲み」で一気にアルコール依存症が加速する話と同じ原理で、どんな場であれ、飲酒の際に気が緩むとろくなことがない。ゆっくり飲んだところで、悪質なアルコールがゆっくりと体を蝕むだけであって、ラインを超えればタガは外れる。

 

それで気づいたらベッドで眠っていた、それだけといえばそれだけの話なのだが、私は一応手元のiPhoneSNSを一通りチェックした。調子に乗って誰かにイタ電をしていないか、ツイッターで暴言をまくしたてていないか、インスタで誰かを傷つけていないか。

「酒が人をダメにするのではなく、酒が人を暴く」みたいな言説が存在していて、まあそれは基本線そうだろうと私も同意するのだが、今まだ続く吐き気を抱えながら言うと、ストロング系についてはこれが当てはまらないと思う。あれは、違う私を作り上げてしまう代物だ。

昨年末くらいに、フェイスブックで「ストロング系チューハイは違法ドラッグとして考えてもよいのではないか」という投稿が話題になり、私も目を通した。(facebook.com/matsumoto.toshihiko/posts/2647659768647332)

薬物のことはよくわからないので比較しようがないが、人格が大きくブレるという点では近しいだろうし、巷のアルコールとはわけが違うんだぞという点で私は大きくうなずける。普段こんなこと思わないのだが、なるべく多くの人にこの事実を共有したいという啓蒙的な気持ちにさせられる。

例えば、自分にとって大切な人(友達でも恋人でも家族でも)がストロング系を何本も積極的に飲んでいたら本気で止めにかかると思う。もし子どもを育てることになったら、「大人になってもストロング系は飲んじゃいけませんよ」と諭すと思う。その人が急にヘビースモーカーになるよりも怖い、だってストロング系は煙草のように文化的な営みといった文脈も一切なく突然登場し、その健康被害については未知数じゃん…。

 

ちなみにネットで「ストロングゼロ文学」や「ストゼロ構文」と検索すると、ストロング系チューハイにまつわる悲喜こもごもな短文が味わえる。

なかでも私が一番パンチ強いと思ったのがこれ↓

 

138 番組の途中ですが\(^o^)/ (アウアウウー Sacf-Jp9y) 2019/11/12(火) 11:54:20.03 ID:X0+66FhGa
ストロングゼロの氷結のストロングゼロウォッカ入ってるんだけど、この氷結のチューハイ毎日ではないけどかなりのペースで飲むと2本
今も例えば月曜日とかだと氷結でストロングゼロ飲んでって感じで飲んでるから人気になるんだと思う
楽でいろんな味だしね

 

最初は「意味わかんねーよww」と笑っていられたけど、今日ばっかりは恐怖が勝る。

 

断食デートに行ってきました

◆断食を始めるまでのいきさつ

※このブログを更新していない間に、彼氏が変わっている。

彼氏が太ってしまった。というか私と付き合い始める時点でかなり太っていた。付き合いだした当初から「痩せなアカン」が口癖になっている。

私は数年前の彼も知っているのだが、そのときは痩せているまではいかなくても普通体型で、身長も高いこともあって彼のことを坂口健太郎風のイケメンだと思っていたし、周囲からもそのように扱われていた。(今はなんというか、ダッフィーみたいな仕上がり)

たかだか付き合っているだけの私が彼の体型事情にそんなにコミットするのもよろしくないんだろうとは考えていたが、本人も自覚が十分にあるようだし、健康上の心配を含めせっかくならその頃に戻って欲しいとは思い、「断食でも行く?笑」と冗談まじりに持ちかけたら、偶然にも彼も断食に興味を持っていた様子。

おもしろそうだからとその場で日程を決め(1/11-1/13)、知り合いが行ったことがあると言っていた愛知県の断食施設を予約した。この手の施設は男女別室で過ごすことが大半だが、そこでは相部屋にできる。

ちなみに私も彼氏のことを笑えないくらいに太り始めていた。昨年夏あたりにジム通いをやめた瞬間ぶくぶくと膨れ上がり、それでも日頃の飲酒量は減らしていないし、グルメで大食な彼氏と付き合い始めてから、食事量も格段に増えた。

クリスマスあたりには、人生最大体重をしれっと更新しており、年始に会った家族にはトド呼ばわり。私も私で危機感たっぷりだったので断食イベントは渡りに船だった。

 

◆断食前夜

じわじわと迫ってくる断食の日。施設からは、「断食の1週間前くらいから食事量を減らしておくと更に効果的です」と連絡があったが、仕事上の付き合いもあり、食事をコントロールすることは非常に難しかった。

前日にいたっては、「明日から丸二日何も食べられないんだ」という突如出現した恐怖心に負け、昼には先輩と焼肉ランチに行き、夜は一人で回転寿司に赴いてしまった。挙げ句の果てにはその足でゲイバーに行き、「明日から断食に行くんだ」「当然酒も飲めないから今のうちに飲酒貯金しておかないと」「ああ〜なんだか怖い」とずっと体重100キロはあるだろうゲイ相手に嘆き続けた。

一人で飲んでいたはずなのに結構な額を払い、そのままトボトボと家路につく。

家で宿泊の準備をしていると、妙にデカくて重い荷物に仕上がってしまった。「ご飯も食べない旅なのに!」と妙に腹立たしかった。

 

◆断食1日目

午前11時に東京駅で彼氏と待ち合わせ。朝から何も食べていない。

少し遅れて来た彼氏は、ここ数日胃腸炎を患って何も食べていなかったらしく、この時点ですでに少し痩せていて笑った。新幹線で名古屋へ向かう。

13時前くらいに名古屋駅に到着し、ホームへ降り立った瞬間、立ち食いきしめんのお出汁の香りで二人とも瀕死状態に陥る。更に目の前に「カルボナーラきしめん」というポスターを見つけ、目が潰れるかと思った。

 

名古屋駅から名鉄、そしてバスを2本乗り継いで本当に本当に本当に山奥の施設にたどり着く。私は一応愛知県出身だが、こんなところ見たこともないレベルの山奥である。この時点で時刻は16時を回っており、移動だけで5時間かかった。

まずは職員の方から「断食とはなんぞや」という話を20分くらい聞かされる。(要は「断食で癌も治る」みたいな話で、正直あまり本腰では聞けなかった。)

そのあとは、もうひたすらに部屋で過ごすだけである。

案内されたプレハブのような簡素な建物の10畳程度の一室には、テレビ、こたつ、ソファ、布団、灯油ストーブがそれぞれちんまり配置されていた。二人の人間がただ時を過ごすには過不足ない設備だったし、当たり前だが周りも非常に静かである。灯油ストーブのスイッチを入れると、火が灯る音や匂いがなんとも懐かしく、しばらく何も考えずにストーブに足を近づけながら体育座りをしていた。彼氏の「そんな近づくと靴下燃えるで」という言葉も、昔おばあちゃんに同じことを言われたなあと思い出してしんみりした。

いわゆる「道場」ではないので、イベントごとはほとんど無い。辛うじてDVDを観ながら軽い体操をする時間が設けられていたが、体操している途中になんと急に生理が来てしまい、私は緊急中止。

朝から何も食べていない&生理というダブルパンチで、夜には完全に体力がなくなっていた。テレビをつけるとちょうど松本人志の「すべらない話」がやっていて、楽しく観て笑っても「あははははは、はは、はぁぁぁぁ〜〜〜・・・・」みたいに笑うだけで消耗してしまうし、かといって他のチャンネルに変えると美味しそうなご飯の映像などが映って心底悔しい思いをしてしまう。

頭も完全に働かなくなってくる。外に星を見に行って、さすがに山、東京よりもとっても綺麗に見えるはずなのに、「あれがオリオン座か〜〜〜」とわざわざわりとどこでも見れる星座ばっかりに注目して、それ以外については考えたり調べたりすることを放棄していた。

深夜は部屋で彼氏と「ぷよぷよ2」という五千年前くらいのゲームで対戦したが、連敗する(ちなみに普段は基本的に私が勝つ)。負けると気分が悪くて不貞腐れた気持ちになってくるし(これは普段からそう)、感情表現もだぶついてくる。コントローラー投げたりはしないけどね。

私が勝つまでぷよぷよを続け(彼氏には申し訳ないことをしたと思う)、就寝。

 

◆断食2日目

朝8時にアラームが鳴り起床しようとするも、頭皮が引っ張られているような頭痛に苦しむ。おまけに滅多にならない生理痛にもなり(人生3回目くらい)、動けない。もうひと寝入りすることを決める。

断食に伴う体調の変化について、色々と下調べはしていた。断食の先輩方のレポなんかを読み漁っていると、だいたい2日目で体調を崩す人が多いようだ。ただし、なぜか私は「自分は大丈夫だろう」という謎の自信があり、彼氏のほうが「オレ絶対に体調崩して寝込むし、最悪途中で離脱する気するわ」と話していた。

蓋を開けてみると真逆の事態である。おそらく断食に向けて少食にシフトする/しないの明暗が分かれたといったところだろう。前夜に食べた回転寿司を憎もうとするも、いくらの軍艦を思い出したただけで口内に涎が溜まる。絶望的に体調が悪くても、空腹は君臨し続けていた。

 

11時ごろにやっと体調を取り戻し、近所を散歩しに行く。水のきれいな川が流れていて、その脇に沿って歩く5キロくらいのコースを選んだ。

体力がないので5キロを1時間半くらいかけてゆっくりと歩いた。山の中といえでも普通に道路は整備されているし、民家もあるルートだったが、車通りはほとんどなく、なんなら人も全くみなかった。旅館のような巨大な一軒家などが立ち並んでいたたが、おそらくどこも空き家なのだろう。

色々と会話しながら歩いたが、彼氏が「自分用のパラシュートが欲しい」「最近はキャンピングカーの動画ばっかり観てる」と話していたことしか覚えていない。

散歩を終えて施設に戻り、入浴。(施設に浴場はないので、近所のホテルの大浴場まで向かう)断食中は倒れるおそれがあるので湯船に入ってはいけないらしい。私はどちらにせよ入れなかったが、彼氏は「湯船を目の前にして入らない自信がない」と嘆いていた。結局存分に掛け湯をして我慢したらしい。

入浴後、散歩の疲れもどっと押し寄せ、私は部屋でこたつに足を突っ込んで泥のように眠った。こんなに密度の高い昼寝(?)は何年振りにしたのだろうというレベルだ。

目を覚ますと、彼氏はラップトップを開いて仕事をしていた。覗き込むと見慣れたエクセルが繰り広げられており、「おえええ」とひっくり返ってもう一回寝転んだ。

このころから、空腹は臨界点に達していた。とにかくなんでもいいから胃に入れたくて仕方ない。

私も知って意外に感じたのは、断食中は喫煙は別にオーケーであること。施設に喫煙所が設けてあり、藁にもすがる思いで彼氏のピースライトを一本貰った。吸ってみると、これまで吸ってきたのと全く味わいが違って戸惑った。これは毎日吸っている彼氏にとってもそうらしい。草の香りが胸いっぱいに広がる感じで、大学生時代免税店でカートン買いした「ダビドフホワイト」の味を思い出して、エモくなった。(申し訳ないけどエモい以外の表現が見つからない、こればっかりは)

夜はiPadで「カメラを止めるな!」を観賞。見逃した話題作で、なかなかに面白かった。意図していなかったが、食事が全くといっていいほど登場しない映画で大変助かった。

そのあとは私のリクエストで「シン・ゴジラ」の「無人在来線爆弾」のシーンだけを繰り返し観た。私はこのシーンが大好きで、観ると元気が出る。

眠くなるまで読書して、就寝。存分に昼寝をしたにも関わらず、ぐっすり眠れた。

 

◆3日目

この日は部屋を片付けて帰宅するだけである。

朝、ついに回復食が食べられることとなった!!!!

メニューは炊いた玄米と味噌汁といったシンプルなメニューであるが、食堂から漂ってくる出汁の香りだけで感涙ものである。彼氏も感極まったような顔をしていた。2日間特に弱音を吐いていなかったが、彼は彼で空腹に苦しみまくっていたのだろう。

玄米は100回程度噛むことを推奨しますと告げられ実行を試みたが、辛抱うんぬんというよりもそもそも物を100回噛むという行為が出来なかった。何度試みても自然と喉に流し込まれてしまう。普段の食事の癖をこんな形で知ることになるとは。苦労する食事だった。

かなりの空腹と戦い続けていたので、あっさり完食。非常に美味しくいただけた。

 

食事後、部屋を片付け、帰宅の準備をする。

布団を畳んで持ち上げる作業があったのだが、これが大変しんどくて二人ともぜえぜえ言いながらやった。布団ってこんなに重たいのか!?ライフはもう0だった。

施設の人に挨拶をし、バスを乗り継いで名古屋まで戻る。途中でスープストックトーキョーに寄って食事をしたが、いつもはペロリと食べてしまうセットでも二人とも「これ以上は無理」と感じるほどの満腹になってしまった。彼氏が「オレ普段ならこれ二人前いけるわ」と話していたが、それはやっぱり普段食べ過ぎだよ、とは思った。

この後、名古屋ということで私の母が合流し、彼氏と三人でお茶をするという珍イベントが発生したが、あんまりここに書くような話ではないので割愛。

「私たち、頑張ったよね!!!」となぜかグリーン車に乗って東京まで帰った。アサヒスーパードライの350ml缶を二人で一本買い、車内で一口飲んだ瞬間で「うめえ〜〜〜〜〜!!!!!」と絶叫しそうになった。断食後の食事よりも、酒のほうがダイレクトに喜びを刺激してきた。

 

◆効果とまとめ

たった丸2日の断食ではあったが、二人とも体重は3キロ程度減っていた。

私は気になっていた下っ腹のお肉がしゅんと消えており、彼氏は顔まわりの贅肉がかなりすっきりとした。また、二人とも肌の調子が異様によくなり、断食中に撮った写真を見返すと、私はすっぴんなのに肌のトーンが1ランク上がっているように見えた。

さらにすごいと感じたのは、本当に胃袋が小さくなったのだろう、その後の食事量が自然と調整されるのである。断食明けの平日、普通にランチに出かけたのだが、いつも3秒くらいで食べ終わる定食が食べきれず、少し残してしまった。一緒に食べていた先輩に「そんなお前見たくないよ」とまで言われる始末である。

そこからは明確に基準は設けないものの「一日三食」にあまりこだわらない生活を続けている。調子はわりと良い。空腹に耐え抜いた事実が「食べない」ということをストレスにしないので、苦しくもない。

 

とはいえ断食をして、食というのは空腹を満たすや栄養を摂取するといった意味合い以上に「楽しみ」であることを大いに実感した。食事をしないだけで、1日の時間も大幅に余るし、何より退屈なのである。

先日は彼氏の家でトマト鍋(シメ無し、野菜のみ)をつついた。2人分の量で充分に満腹になった。鍋ならいつも二人で3.5人前は食べていたし、シメの雑炊までしっかり堪能していたことを考えると、なかなかの進歩である。

食後にキンミヤ焼酎のお湯割を飲みながら色々と会話をした。酔っ払っていたしそんなに中身のある話ではなかったが、断食中にはこんなにじっくりと会話はしなかった。(喧嘩なども全くしていないが)食でリラックスすることで、コミュニケーションもより滑らかになっている。

ただ、彼氏が何かを話出すときに「なんかさ、」で始まることが多いのは断食生活のなかでふと気づいた。静かな山奥の喫煙所で「なんかさ、」と言い出した横顔を、この先も思い出すのだろう。好きな人間のこういうところに気づけるのは楽しく嬉しいものだし、これは断食によって研ぎ澄まされたある種の勘が気づかせてくれたものだと思っている。

彼氏は今月中に禁煙外来にも行くらしい。本格的に健康に取り組む姿を見て、私もまたジムでも通おうかと考えている。

 

たった二日の断食で、あんまり後に続く人のためにもなるような内容ではないレポートでした。ただ言えるのは往復5時間かけてでも「とりあえず行ってよかった」と思えたことだ。今まで味わったことのない特殊な時間を過ごした。

断食はその気になれば自宅でもできるような行為だが、私はセルフでやることは絶対に出来ない。そのくらい、世の中は食の誘惑に溢れている。もし次もやるとするならば、断食施設まで赴かずとも、せめてコンビニも全くない田舎の宿で素泊まりするという形になるだろう。本当に本当に、お腹空くからさ…

 

断食中もずっと穏やかで親切だった彼氏と、日頃の食への感謝をこめ、今日も夕食は抜いて寝ることとする。

 

劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVEキングダム を観て(ほぼ詩)

残業後の帰り道、夜風に当たりながら音楽を聴いて歩いているとシャッフルで「夢追人へのSymphony」が流れて、目にうっすら涙が溜まった。いてもたってもいられなくて帰宅直後、レモンサワー片手にこれを書いている。

思えばtwitterやブログを立ち上げたのも、うたプリへの思いが日常生活では堰き止められなかったことが始まりだった。そこから人間関係はがらっと変わり、うたプリ中心の生活で私の人生の軌道も大きく変化し、今が形成されたと言っても過言ではない。

そして、そのこれまでの熱中ぶりに一つの答えとして、劇場版があったのだと思う。

本当に気持ち悪いことを言うけど、やっぱり私がちゃんと確信できる「愛」ってここにしかないとマジで考えてしまうのだ。

 

うたプリには本当に「愛」っていうワードが頻出する。歌詞にしても、MCのセリフにしても。ゲームでももちろんたくさん出てくる。そのときどきには「うんうん、愛ね。はいはい」程度に受け取ってしまうのだが、劇場版でもたくさんの「愛」ってワードを聞いているうちに、「彼らが一度でも私(たち)への愛を疑ったことはなかったな」と思い知らされるような気持ちになり、目頭が熱くなった。

朝目覚めて普通におしゃれして彼の元へ会いに行くと、「もうお前のこと好きじゃないかもしれない」と言われる。そんなことがザラにある生活のなかで、いつでも「大好き」って伝えてくれる存在って、稀有でありがたくて、幸せになれる。

無理しないで、どんな君でも好きだよ、夢を追いかける君は素敵だよ、いつもありがとう…涙。

 

学生時代に心が迷走していた頃、ルミネのようなファッションビルなどに入ってカップルを見かけると「私たちこの組み合わせでセックスしてまーす」って言われているようで勝手に気分が悪くて動けなくなる瞬間があった。今思えば相当病んでいたように思うが、そんなときもうたプリの曲を聴くと精神が安定することがあった。うまく言語化できないけど、私の中の「愛」の基準が整えられ、励まされる気がしたのだ。

 

社会人になってしばらくした一時期、うたプリ(に限った話でもないのだけれども)にこんなに傾いて、心の支えにしてしまっていいのだろうかと悩んだ。もっと端的に言えばいい年してオタクやってんのってどうなんだ、という話である。そこから現実世界の愛を探しに合コンに誇張抜きで100回行ったり、男性と付き合ってみたりとした。それはそれで楽しかったときはあったが、一ノ瀬トキヤの曲を聴くと「君はそれでいいのかな?」と問われているような気がして辛くなる時があった。失恋してもう一度同じ曲を聴くと「それでも大丈夫なんだよ。おかえり」と言われているような気がして、ちょっと泣いたりもした。(※推しは寿嶺二なのだが、やっぱり曲は一ノ瀬トキヤが一番好き)

オタクなんてダサい、そんなことはわかりきっている。

でもどんな私でも受け入れてくれるような世界は今改めて周囲を見渡しても、ここにしかないような気がする。

 

昨日、二日酔いが本当に辛くて、命からがら出社したはいいものの、午前中ずっと会社のトイレで吐いていた。ちょっと早めに昼休みをもらって外に出て、コンビニのイートインで豚汁を啜った。空っぽの胃に入る豚汁が美味しくて感極まっていると、イートインの隣の席に座っている女性(すごく失礼なんだけど最初おじさんだと思った)のスマホケースが美風藍であることに気づいた。

「マジラブキングダム、良かったですよね」と心の中でつぶやきながら、この人もまたうたプリの愛に守られた幸せな女性なのだなとしみじみ思った。藍ちゃんが二日酔いでボロボロになっている私を見てため息をついている姿を想像したら胸が熱くなった。思い上がりかもしれないけど、その一瞬は私一人の体じゃないんだと感じた。

やっぱり田中みな実が超可愛いんだなって話

エヴァンゲリオンの 13話が昔から結構好きだ。(あらすじページお借りいたします:https://36ch.com/evangelion/eva_story/eva_story13/)といっても、リツコと母親、そして女みたいな話はわりとどうでもいい。なんといってもMAGIシステムってめちゃくちゃかっこよくないですか?ってことなのですよ。

初めて観たときの衝撃は忘れられない。メルキオール、カスパー、バルタザールの3つのシステムの多数決を行うスーパーコンピューター。すごく理に適っているように見える一方で、3つの人格が入り混じっているどこか人間臭いリアリティに満ちたシステムである。それでも結局は多数決。クール極まりない。

かなり唐突だが、「もし私の中にMAGIシステムが搭載されていたら、どんな3つの人格によって構成されているだろう」と考えたことがある。当時大学生だった私の結論はこうである。「石原慎太郎」「フジモンFUJIWARA)」「田中みな実」。

簡単に説明しておくと、「石原慎太郎」は文学と政治に物申したがる厳格な爺さんのような私で、「フジモン」はおちゃらけるときもあれば正論をかぶせたがるツッコミ的な立ち位置を買って出てしまう私(あと、木下優樹菜のようにヤンキーっぽい人間に惹かれがち)である。

田中みな実」については、単にぶりっこしちゃう私、という意味で加えた。その当時に私のなかでは「田中みな実=ぶりっこ」であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。顔の良し悪しなどについても、特に何も考えたことがなかった。

ところが今、田中みな実ってめちゃくちゃ魅力的じゃないか!?とつくづく思い始めている。

「an・an」で例の「肘ブラ」表紙を公開することによって、ある種「再発見」された田中みな実であるが、今や女性ファッション誌や美容誌などの表紙にもしばしば登場している。TBSアナウンサー時代は女に嫌われる女の代表のような触れ込みだったことを思い返すと、ものすごいイメージ改革だと思う。

ネットニュースなどでも頻繁に彼女の名前は出てくる。あざとキャラは相変わらずのようだが、美容に力を入れている様子を見せたり、節々に過去の失恋を薄暗い様子で語ったり、独身女性の闇(あんまりこういう言葉使いたくないけど)を披露したりすることもあるらしい。宇垣美里もそうだが、美女が共感性の強い心の闇を発信すると、女性票は途端に集まるという現象がある。個人的にはなんとも情けない話だと思うのだが(美女の悩みを見て安心する一般女、という構図がみじめ)、田中みな実もそういうアプローチで着実に露出を増やしているのだろう。

彼女はよく「30過ぎて独身」ということを言っているらしいが、どう見ても今の田中みな実は5年前よりもずっと綺麗だし可愛い。ロリっぽさが消えて、フェイスラインがずっと美しくなっているし、華奢ながらになんだか触ってみたくなる雰囲気がある。

27歳の私が言うのもなんだが、石原さとみ北川景子といった日常的に美女の代名詞として挙げられることが多い有名人が軒並み30代であることを考えると、平成も終わり、20代女の神話も終焉を迎えつつあるのではないかと思う。私なんかは田中みな実を見ていると、自分もこの先、このくらい綺麗になっていけばいいなあと希望すら感じる。

しかしここで見失いがちなのは、容貌の美醜と「30過ぎて独身」という事実は全く別の問題であるということだ。20代女の神話が終わるということは、すなわち若くて可愛ければ結婚できるという言説も淘汰されるということになる。だからこそ「充分可愛いのに結婚していない」という状況は、結婚願望のある人間にとっては辛いのだ。田中みな実の言う「30過ぎて独身」はきっとこういった意味を含んだ発言であって、お茶の間の一般人が「田中みな実も結局は私と同じ女なんだ」と思ってしまうのは迂闊だろう。

迂闊なのは女だけではない。たまに私が飲みの席なんかで「田中みな実ロールモデルにしています」と言うと、高確率で男から笑われる。私はこれがかなり腹がたつ。じゃあお前、目の前に田中みな実が現れて誘われても絶対にノーと言うんだろうな?という気持ちになってくるのだ。たかがぶりっこ女に俺は騙されないよって顔している男は、一生ステップワゴンに乗ってアウトレットで買い物してればいい。(※ステップワゴンはいい車だし、アウトレットは最高だけどね)

と、ここまで啖呵切ったはいいものの、実際田中みな実ロールモデルって一体何をすればいいんだ?と考え込んでしまうことはある。よく私は憧れの人物を見つけると、その人の作品をまず漁り、影響を受けた本や音楽など紹介していれば片っ端からチェックする、みたいなことをしていたが、田中みな実に関してはそういうものがほとんど見当たらない。っていうか田中みな実って本とか読むの?

となるとやはり参考にすべきはファッションだろうかと思い、試しに「田中みな実 私服」で検索してみると、一定の傾向は読み取れる(ノンスリーブのリブニット、厚底、凝ったデザインのスカートなど)ものの、何か今すぐ真似れるようなアイディアは拾えなかった。ますます田中みな実の唯一無二感が際立つのみである。私のMAGIシステムに入ってもらっているのもおこがましいレベル。というかもう大学生でもないのだから、システムの総入れ替えが必要だろう。

MAGIシステムのポイントは一人が女性であることである。早く後釜を見つけなければ、石原慎太郎フジモンだけでどこまでも突き進んでしまう。

令和〜〜!!

平成が遂に終わったわけですが、あのメディアの盛り上がりようは何だったのでしょう。まるで大晦日で、なんとなく0時を跨がないと勿体無いような気がして、眠気まなこでテレビ画面を見つめていた昨日。「令和最速婚」といって、深夜に役所に並ぶカップルの映像が流れた。なんで時代の節目にこんなもん見なくちゃいけないんだよ、とさすがに心がささくれた。同時にテレビ側の手持ち無沙汰を感じた。特にネタがないんだろうな。年末ではないからね、除夜の鐘も鳴らない。

 

やっぱり感慨深いものとして平成の終わりを噛み締めるべきなのだろうとは思った。たとえば親世代が昭和へのノスタルジーに想いを馳せているのを見ては、今まで特に何の感想も抱いていなかったが、これからは平成が私にとっての帰る場所になっていくということか。だとしたら心強いものだ。「令和はすごいねえ」とか言っておけばいいと思えば安気になる。さとり世代、上等じゃないか。もともと世間様と闘う仕様じゃないんだよ私たちは。

令和の目標とかは特に決まってない。とりあえず「東京オリンピックまでに岸尾だいすけといるところを文春に撮られる」というマニフェストはこの前友達と決めたけど、令和はそのあともずっと長いもんな…。

うっすら考えることとしては、これからの時代、人生を楽しむためには「自分を発信し続ける」ことがどうしても不可欠になってくるだろうということ。別にSNSマスターになる必要は無いのだけれど、何かしらで存在感を維持していかないと、人生のアカウントは簡単に忘れられてしまう。

ぶっちゃけ私は色んなコミュニティを気分でウロウロするタイプで、しかも恥ずかしくて濃密な関係をなかなか作り出せない気質なので(依存に転ぶのが怖い)各方面にころっと忘れられる可能性が微レ存。連絡などがマメなタイプでもないので余計。平日普通に仕事して家に帰って何もしないで寝ようとした夜には、自分の社会的な浸透圧を感じてしまって溜め息が出そうになる。生活に何の不満もないのに。

別に友達が100人いようが恋人がいようが結婚して家族がいようが人間は孤独な生き物なのは分かってるけど、出来れば寂しくないように過ごしていたいと切に思う。というわけでとりあえずパッと出来ることはこのブログの更新頻度を上げることくらいかしら。書くって作業は、その日一日に色塗りをするようで、ちょっとだけ生活がグレードアップした気分になるのだ。

 

4月27日、森かとまんインドのイベントのお手伝いをしました。面白かったですよね、あの夜。私は完全に3人のネームバリューの大船に便乗したに過ぎないわけですが、「ブログ読んでます」と声をたくさん掛けてもらって超超超嬉しかったです。いつか、このブログが誰かの寝る前のお気に入りの読み物みたいになったらいいなぁって考えています。令和もよろしくお願いします。たほ

自らの満ち足りなさを世間の無知に贖おうと退行するサド的視座

タイトル意味わかんないでしょ?でもこういう意味わかんないそれっぽいことってすごく日常に蔓延してない?って話です。

 

テレビはそんなに観ないのだが、政治バラエティや討論番組、ノンフィクションなどは興味がある。私が一番好きな番組は「そこまで言って委員会NP」で、実家にいる頃から10年近く見続けている。上京したときには「ああ、これでそこまで言って委員会が見れなくなる」とわりと本気で悲しんだものだが、最近TVerで視聴できると知ってからは狂喜してほぼ毎週視聴している。

この番組の面白さについては私なんかがここでだらだらと書くよりも、各位観てもらった方が早いと思うので割愛。色々勉強にもなるし、毎回頭のいいちょっと不思議な人を眺めることも出来る。暴力的な発言が炸裂することもあるが、どことなくウィットがきいていて憎めない討論会。私が「冗談の通じない人」を未熟だと思うのも、この番組の影響が随分と強いだろう。

さて、二回前くらいから「そこまで言って委員会NP」の司会者が変わってしまった。もちろん辛坊治郎議長は変わらないのだが、その隣に立つ司会が渡辺真理さんではなくなってしまったのだ。代わりは25歳の読売テレビ女性アナウンサー。もうショック過ぎて名前すら覚えていない。

なにも私は「若いバカそうな女に変わってしまって残念」という尊大なおじさん的な考えを抱いたわけではない。(ここ重要)ただ、知識人たちが白熱して、ときには行き過ぎることもある議論を、バラエティ色を留めたままここまで中立的に進行していた渡辺真理さんを私は仕事人として非常に尊敬していたのだ。もうあの凛とした大人を見れなくなるのかと思うと残念である。(同じ意味で、最近では宇賀なつみさんのテレ朝退社もかなりショックだった)

そして後任のアナウンサーが番組で紹介されても、誰だかさっぱりわからない。普通に可愛いとは思うけど、この可愛さは「そこまで言って委員会NP」にはいらない。多分、こういう感想を抱く女性視聴者は私のほかにも多いと思うのだが・・・。

ここでやっと本題(?)に入るわけだが、私はこのアナウンサーの最初の挨拶が気に入らなかった。ピンとこなかった、という方が正しいかもしれない。意気込みを語るなかで、「個性的なみなさんを締め付ける、サドな秘書として頑張ります!」的なこと言ったのだが、私はこれを根っこからズレていて、自意識過剰な発言だと感じた。

もちろんこれが他から言うように指示されたことであるかもしれないので、彼女自体を否定するつもりは一切無い。ただ、自分の知識や経験に基づく、確固たる「自分の見識」を発言し合う番組のなかにサドもマゾもないし、「締め付ける」権限なんてもってのほかだ。話の腰を折るのが関の山。どうせ「魑魅魍魎の中でも負けじと頑張る可憐な新人」みたいな図を作り出したかったのだと思うが、それなら他の言いようがあるだろう。

年をとったのか、こういう「気取った態度のズレ」というものが気になるようになってきた。自分が思わぬところでやっていたら、本当に恥ずかしい。尤もらしく発言することのリスクをもっとしっかり考えて生きていかなくてはならない。

 

村上春樹騎士団長殺し」が文庫になったので読み進めているのだが、思わず栞を挟んでしまった一説がある。

 

ー私は一人で首を振った。そして苦笑しないわけにはいかなかった。まったく絵に描いたようなフロイト的解釈だ。まるでそのへんの頭でっかちの評論家みたいな言いぐさじゃないか。「あたかも孤独な女性性器を想起させるような、この地面に開かれた暗い穴は、作者の無意識の領域から浮かび上がってきた記憶と欲望の表象として機能しているように見受けられる」とか。くだらない。

(「騎士団長殺し」第二部上巻より引用)

 

「私」は自らが描いた絵についてこのように述べているのだが、私はこれを読んでちょっと笑ってしまった。生類わかりみの令って感じ。評論というのは文化の発展のなかで重要な立ち位置にあるだろう。誰でもする評論をする権利があるがそれで食べていくのは非常に難しい。ただ、これは的を外すととんでもなく滑稽であることを示唆する一説だと思う。

東京にバンクシーの絵画が現れたかもしれないとかで最近騒がれているが、これについて独自の解釈で偉そうにバンクシーを語り始める人見ると、共感性羞恥が誘われる。同じ軌道で、ジブリ映画から見る死生観(ex.「となりのトトロ」のさつきとメイは実は死んでいる?みたいな)を真面目に考察したり、あるいはそれを大学の卒論なんかにしちゃう人も思わず「そんなん宮崎駿に聞けよww」とバカにしたくなる。人物や物事に対する根拠の無い考察、答えがすぐそこにある暗喩の過大解釈、そういうものは全部無くて良いのではないのか。あえて閉じたものをこじ開ける必要性が、私にはなかなか理解できないことがある。

「たほちゃんって、家族に対してこうだよね、男に対してこうだよね、友達に対してこうだよね」とさして仲良くも無い人間に知ったようなことを言われると、毎度恨みつらみが蓄積してゆく。そうやってあなたが鼻の穴を膨らませながら言っていることは、何一つ当たっていないし、相手の癇にさわるだけだ。「君の知らない物語」でも聴いて出直してこいと。

私がこう思ってしまうことに対して、「他者を通じた自己を拒絶することによって、より深い言及を求めるアンビバレントでサド的求愛行為」とか言われたらもう本当におしまいなんだけどね。