たほ日記

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「限局性激痛」って結局なんなのよ?

「ソフィ カルー限局性激痛」原美術館コレクションより  を鑑賞した。

 

限局性激痛とは、元は医学用語で身体の特定の部分の鋭い痛みのことを指すらしい。いかにもメンヘラアーティストが新たに創作しそうな言葉が医学用語として既出であるというのは少し不思議な感じがする。

 

カル自身の失恋体験による痛みとその治癒を、写真と文章で作品化したものです。人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙や写真で綴った第一部と、その不幸話を他人に語り、代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく様子を、美しい写真と刺繍で綴った第二部で構成されます。

(以上、原美術館の「展覧会概要」より抜粋。)

 

ここでの最愛の人とは、もとは父親の友人らしい。相当な年の差があっただろう。思わずマクロン大統領と彼の奥さんを思い出してしまった。うーん、フランスっぽい!

第一部の写真と文章は、美術としてぐっと刺さるというよりは、一つの読み物として非常に興味深いものがあり、好みの小説を夢中で読み耽るような錯覚に陥った。同時に、美しい写真が飛び込んで来る。1980年代の日本。私は生まれてこそいないが、そうギャップも感じないお馴染みの景色。それがカルのファインダーを通すだけで妙に異国っぽく見えてしまう。何よりも、彼女が目にしているもの、手にしているものは非常に上質だ。

今井俊満に招かれると、そこにはカルの恋人を象ったイヴ・クラインの作品が。彼女はその前日に行きずりのイタリア人と寝ており、その作品を見つけて「あなたがもう化けて出てきたのかと思った」と綴る。この一連にはクラっときた。稀有なシチュエーション、豪華すぎる登場人物、少女らしくもウィットに富んだ言葉のコンボに憧れを抱かざるを得ない。

寂しさや悲哀、やり切れなさのようなものは恒常的に漂っているものの、それなりに楽しいであろう瞬間や、様々なものを写真として残していくエネルギーは残されているのが第一部であった。

 

第二部では一変、たった一枚の写真が徹底して何枚も展示される空間となる。数分の電話で別れを告げられたホテルの一室の写真である。写された室内に据えられた赤い電話を見過ぎて、鑑賞後しばらく目蓋の裏に赤い点が焼きついた。

写真の下には刺繍で綴られた文章が掲げられ、何度も何度も同じ別れのシーンを少しずつ文言を変えながら描写している。これと交互に、カルが聞いた他人の不幸話がこれまた美しい写真とともに展示されている。

他人の不幸話は一つ一つ多岐に渡っているが、カルの物語は一貫して同じ失恋である。はじめはまるで無限ループか?と思うくらいに同じ情景がくどくどと文章で繰り返されるが、日が経つごとにそれは少しずつシンプルに、言葉選びもスッキリとしてくる。失恋という痛みが癒えていく過程を感じさせるといえば感じさせるのだが、終盤に近づくにつれ自分の話を「よくある、ありきたりな失恋話」と片付けていくようになるのは、見ていて少し悲しくなった。私自身がよくやる感情の始末の作法とそっくりだったからである。結局、みんな心は同じ離れ小島に漂流してしまうのかと考えると、人間の感情処理のキャパシティは案外小さいなと思う。

 

「限局性激痛」というタイトルについても、少し考えてみたい。人それぞれ違う解釈が生まれるところだとは思うが、私はこのタイトルがとても実践的であるという感想を持った。例えば私は失恋ないしはそれに近いことに直面したとき、必ず胃が鋭く痛む。厳密にいうとそれは胃ではないのだろうが、胴の中心がざっくりっと刺された心地だ。本当に痛むのはひと時だけで、その後はじわじわと慢性的な憂鬱が全身を蝕んでいく。ちょっとした心の病気になり、やがて治るといった具合で、「限局性激痛」は特別ではない、誰の手元にもある実際の痛みなんじゃないかと思う。

もしソフィカルがこの文章を読んだら「ちげえよばーか」と言われるかもしれないが、この解釈は少なくとも「限局性激痛」という言葉には沿っているはずだ。車で撥ねられたようなインパクトが無いから他人には何でもないように見えるけど、深く強く痛む非常に個人的な傷。

 

これは展覧会の内容とは関係ない話だが、私が行った土曜日はとても混んでいた。こんなアクセスの悪い美術館に多くの人が集まるのは心底不思議だった。(自分もわざわざタクシー乗って行ってるくせに)そしてその分、鑑賞マナーの悪い人が多く目立った。

音の響く空間でぺちゃくちゃと喋る男女。人物を細かく写した写真を、まるでサイゼリヤの間違い探しのように至近距離で覗き込み、「難しい〜〜わかんね〜〜ww」などと騒ぎ立てる。もちろんその間、鑑賞する人の流れは堰き止められてしまっている。よほど直接注意しようかと思った。うるさいですよ、分からないなら帰ったほうがいいんじゃないですか、って。でも、相手はカップルだしなぁ。「一人で何しに来たんすかw」とか言い返されたらどうしよう。泣くかも。などと考えていたら彼らは勝手に飽きたようでどこかへ行ってしまった。いちいちキャプションを音読する頭の悪そうな学生カップルにも胸がざわついた。どうして自分がこんなにイライラしているのか分からなかった。それでも彼らを切り抜けた瞬間、途端に心は落ち着いてまた鑑賞に集中出来た。そのくらい、私はソフィカルの失恋の追体験に没頭したかったのだろう。男女の笑い声が、最も似合わない展覧会だった。

 

夕方に約束があったので、私は鑑賞後そそくさと美術館を後にし、タクシーが来るのを待った。美術館の出入り口付近には喫煙スペースがあり、そこでさっきの学生カップルが煙草を吸っていた。キャスターマイルドの匂い。漂って来た瞬間、微かに胃が痛んだ。なんなんだ、これは? 久しぶりに嗅いだこの匂いで、しまっていた「何か」をぶり返しそうになる。絶対に悪いもの。私はそれを思い出したくなかったのでグッと堪え、そこでタイミング良くタクシーが現れた。

今これを書きながらも、結局あの時の思い出しそうになった「何か」が何だったのかは謎のままである。近くにキャスターマイルドが無いからか。(っていうか今そもそもキャスターマイルドって無いんだっけ。) でも、いつかは不明であるが「当時」の私はこの煙草とともに何かしらの限局性激痛を味わっていたことは確からしい。しかしそれは思い出せないくらいにさっぱり忘れてしまったと。この事実は、ちょっとした希望になると捉えたほうが幸せになれるだろうか。

 

原美術館は2020年で閉館してしまうらしく、ちょっと寂しい。もっと通えば良かったなと思った。